柴田勝家とお市の辞世の句:夏の夜のほととぎすに、二人は何を託したのか

「北の庄城 お市の方 殉難侍女 慰霊碑」
この記事のポイント

  • 勝家とお市の辞世は、どちらも「ほととぎす」で終わる
  • 天正十一年四月二十四日は、いまの暦で六月半ば。ほととぎすが実際に鳴く季節だった
  • 同じ鳥に、勝家は「名」を、お市は「別れ」を託している
  • ただしこの二首は同時代の一次史料には見えない。誰が聞いて、どう伝わったのかを考える
大河ドラマ「豊臣兄弟!」第33回「北庄城の別れ」は8月30日(日)放送。北ノ庄城が落ちる回です。

落城の場面で必ず引かれる二首がある。

柴田勝家と、お市の方。夫婦が最期に詠んだとされる辞世の句である。

並べてみると、あることに気づく。二首とも、最後がほととぎすで終わっている。

柴田公園に建つ柴田勝家公像

北ノ庄城址・柴田公園に建つ柴田勝家公像

目次

二つの句

まず、勝家の句から。

夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を
雲井にあげよ 山ほととぎす
柴田勝家

そしてお市の句。

さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の
別れを誘ふ ほととぎすかな
お市の方

意味を開いておく。

勝家のほうは、「夏の夜の夢のようにはかない、この後に残る自分の名を、雲の上まで運び上げてくれ、山のほととぎすよ」。ほととぎすへの命令形で終わる。

お市のほうは、「そうでなくてさえ、寝入るほどのわずかな間しかない夏の夜なのに、その短い夜が別れを急き立てる。ほととぎすが鳴いている」

同じ鳥を見上げて、片方は名誉を、片方は情を託している。この差が、そのまま二人の立場の差になっている。

なぜ、ほととぎすなのか

戦国の辞世に季節の鳥が出てくると、つい「詩的な演出だろう」と思ってしまう。だがこの場合、そうとも言い切れない。

北ノ庄城が落ちたのは天正十一年四月二十四日。これは旧暦である。

いまの暦に直すと六月半ばにあたる。梅雨の入りかけ、初夏である。

ほととぎすが、実際に鳴いていた季節だ。

ここが大事なところで、二人が空想の鳥を詠んだのではなく、本当に耳に届いていた声を詠んだ可能性があるということになる。

そしてほととぎすは、当時「死出の田長(しでのたおさ)」とも呼ばれた。冥途とこの世を行き来する鳥と考えられていたのである。

死ぬ側の人間が、あの世へ渡る鳥に何かを託す。当時の人にとって、これはひねりでも比喩でもなく、そのままの意味だった。

▽ よく語られる話
勝家とお市は、燃える天守で辞世を詠み交わして自刃した。
▼ 史実ではこうです
この二首は、同時代の一次史料には出てきません。後世の編纂物を通じて伝わったものです。詠んだ瞬間を記録した人間はいません。
ただし季節は合っています。四月二十四日は初夏で、ほととぎすの季節でした。「後から作ったにしては、細部が正しい」という句です。

誰が、この句を聞いたのか

ここで素朴な疑問が出る。

城の中の者が全員死んだのなら、辞世は誰が持ち出したのか。

これは辞世の句というものに、いつもついてまわる問題である。しかし北ノ庄城の場合、答えになりうる事実がひとつある。

浅井三姉妹は、城を出ている。

茶々・初・江の三人は落城前に城の外へ送り出され、秀吉に保護された。つまりあの城には、外へ出た人間がいた。

三姉妹だけではない。侍女や家臣にも、脱出した者、助命された者がいたと伝わる。句が伝わる経路は、たしかに存在したということになる。

もちろん、それは「だから本当に詠まれた」の証明にはならない。だが「誰も生きて出なかったのだから全部作り話だ」と切り捨てることも、同じくらいできない。そこが面白いところだと思う。

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秀吉はなぜお市の方を助けなかったのか:娘は城を出た。なぜ母だけが残ったのか

娘三人が城を出られたということは、交渉の窓口はあったということです。ではなぜ母は残ったのか。

勝家の句は、誰に向けられているか

勝家の句をもう一度読むと、宛先がはっきりしている。「跡の名を雲井にあげよ」——後世に向けた注文である。

負けたのは事実だ。それは動かせない。だが負け方まで一緒に語られるのは困る、と言っている。

勝家という人は、信長の筆頭家老でありながら、清須会議で秀吉に主導権を奪われ、賤ヶ岳で敗れた。生涯の勝ち星より、最後の負けのほうが有名になってしまった武将である。

本人がそれを予感していたとすれば、この句はずいぶん切実な内容になる。名を残せ、と鳥に頼むしかないところまで来ていたということだから。

北ノ庄城址の石碑

北ノ庄城址。城の痕跡は、いま地下と石碑にしか残っていない

お市の句には、命令形がない

対してお市の句には、誰への注文もない。

「別れを誘ふ」——ただ、別れが来る、と言っているだけである。

抗っていない。恨んでもいない。短い夏の夜が、勝手に別れを連れてくる。そういう詠み方をしている。

お市は小谷城でも落城を経験している。夫・浅井長政を兄・信長に討たれ、そのときは娘を連れて城を出た。十年後、同じ状況で、今度は出なかった。

二度目の落城で詠まれた句に、抵抗の言葉がひとつも入っていないのは、すでに決めていた人の言葉だからではないかと思う。

二首を並べると見えること

この二首、上の句の作りがよく似ている。どちらも「夏の夜」を軸にしている。

だが着地が正反対だ。

  • 勝家……夏の夜のようにはかない→ だから名を残してくれ
  • お市……夏の夜のように短い→ だから別れが早く来る

同じ夜の短さを、勝家は「消えること」として、お市は「急かされること」として受け取っている。

武将は死後を考え、妻は目の前の別れを見ている。並べて初めて、二首が対になっていることがわかる。

よくある質問

Q. 辞世の句は本人が本当に詠んだのですか?
A. 断定はできません。同時代の一次史料には見えず、後世の編纂物を通じて伝わっています。ただし季節や当時の言葉の使い方は自然で、まったくの創作と決めつけることもできません。

Q. 落城したのはいつですか?
A. 天正十一年(1583)四月二十四日です。旧暦なので、いまの暦ではおよそ六月半ばにあたります。

Q. ほととぎすにはどんな意味があったのですか?
A. 初夏を告げる鳥であると同時に、「死出の田長」と呼ばれ、冥途を行き来する鳥と考えられていました。辞世に詠まれるのは自然なことでした。

Q. お市の方は、なぜ娘だけを城から出したのですか?
A. こちらの記事で詳しく書いています。娘が出られたということは、交渉の窓口自体はあったということになります。

ゆかりの地をめぐる

  • 北ノ庄城(福井県福井市)… 二人が最期を迎えた城。石垣の根石が地表に出ています
  • 柴田神社(福井県福井市)… 勝家とお市を祀る社。御朱印・御城印があります
  • 小谷城(滋賀県長浜市)… お市が最初の落城を経験した城
  • 玄蕃尾城(福井県敦賀市)… 勝家が賤ヶ岳で本陣を置いた陣城

イラストで見る武将や姫たち

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まとめ

辞世の句は、本当に本人が詠んだかどうかを確かめる手段がない。だから史料としては弱い。

それでもこの二首が四百年伝わってきたのは、後の人が「この二人ならこう詠むだろう」と納得したからだろうと思う。

名を惜しんだ武将と、別れを受け入れた妻。そういう二人だったと、伝えた側が信じていたということである。

句の真偽より、その受け取られ方のほうが、たぶん歴史としては確かなものだ。

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