- 元亀元年(1570)、浅井長政が離反。信長は金ヶ崎から命がけの撤退をする
- 同年六月姉川の戦い。ただし「姉川」という呼び名は織田側の呼称で、浅井側は野村合戦と呼んだ
- 元亀二年(1571)比叡山焼き討ち。犠牲者数には諸説あり、近年の発掘では通説より小規模との見方も
- 天正元年(1573)小谷城落城。お市は三人の娘とともに城を出る
大河ドラマ『豊臣兄弟!』第13回「疑惑の花嫁」から第17回「小谷落城」まで。同盟者だった浅井長政が離反し、三年をかけて滅ぼされるまでの五回である。
この時期は、秀吉が「将」として認められた時期でもある。そして秀長の名が、はっきり記録に現れはじめる。

小谷城跡。浅井三代の居城で、日本五大山城のひとつに数えられる
この五回で実際に起きたこと
- 元亀元年(1570)四月… 越前攻めの最中に浅井長政が離反。金ヶ崎の退き口
- 同年六月… 姉川の戦い。織田・徳川が浅井・朝倉を破る
- 元亀二年(1571)九月… 比叡山焼き討ち
- 元亀三年(1572)… 信長が虎御前山城を築き、小谷城を包囲
- 天正元年(1573)八月… 朝倉義景滅亡、小谷城落城。浅井長政自害
- 同年… 秀吉が北近江三郡を与えられ、長浜へ
補助線①:金ヶ崎の退き口で、秀吉は何をしたのか
浅井の離反で、信長は前後を挟まれた。撤退は全滅と紙一重である。
このとき殿(しんがり)を務めたのが秀吉だと語られる。ただし殿は秀吉一人ではなく、明智光秀や池田勝正らも担っていたとする史料もあり、秀吉単独の武功とするのは後世の脚色を含む。
とはいえこの撤退戦を生き延びたことが、秀吉を「戦のできる男」として印象づけたのは確かだろう。
補助線②:「姉川の戦い」という名前は、勝った側の呼び方
細かいようだが、面白い点である。
「姉川の戦い」は織田・徳川側の呼び名で、浅井側は「野村合戦」と呼んだと伝わる。戦いの名前は、たいてい記録を残した側がつける。
また徳川家康の奮戦が有名だが、これも徳川の記録が江戸時代に整えられた影響が大きい。合戦の実像は、勝者と後世の都合で形を変える。
補助線③:比叡山焼き討ちは、どこまでの規模だったのか
「僧俗数千人を皆殺しにした」と伝わる比叡山焼き討ち。近年の発掘調査では、通説ほどの大規模な焼失痕が確認されていないという指摘がある。
虐殺そのものを否定する話ではない。ただ数字と範囲については、記録が誇張された可能性が議論されている。
信長の「残虐なイメージ」は、この一件で決定づけられた。だからこそ、その根拠がどこまで確かなのかは押さえておく価値がある。
補助線④:お市の一度目の落城
天正元年八月、小谷城が落ちる。浅井長政は自害し、お市の方は三人の娘とともに城を出た。
茶々・初・江。のちに豊臣と徳川の両方へ血をつなぐ三姉妹は、この落城から始まっている。
そして十年後、お市は北ノ庄城で二度目の落城を迎え、今度は城に残る。
なぜお市は、小谷では城を出たのか
のちの北ノ庄と比べると、この違いは際立つ。
小谷城が落ちるとき、お市は三人の娘とともに城を出た。夫・浅井長政は自害し、嫡男の万福丸は殺されている。それでもお市自身は生きて出ている。
理由として考えられるのは、兄・信長がまだ生きていたことだろう。攻めたのは兄であり、迎え入れる先も兄だった。帰る場所があった。
そして十年後の北ノ庄では、信長はすでに本能寺で死んでいる。帰る先がない。
この差が答えかどうかは、わからない。ただ、一度目には兄がいて、二度目にはいなかった。それだけは事実である。
補助線⑤:ここで秀吉が「城持ち」になる
浅井滅亡の恩賞として、秀吉は北近江三郡を与えられた。そして小谷城には入らず、琵琶湖畔に新しい城を築く。長浜城である。
山城を捨てて、水運の使える平城を選んだ。戦うための城ではなく、水と人と金が集まる城。ここにも秀吉の性格が出ている。
そして弟の秀長が、この長浜で兄の留守を預かるようになる。「補佐役・秀長」がはっきり形になるのは、この時期からである。

長浜城。秀吉が初めて城主となった城。山城ではなく琵琶湖畔の平城を選んだ
現地はいま
- 小谷城(滋賀県長浜市)… 浅井三代の城。落城の舞台
- 虎御前山城(滋賀県長浜市)… 信長が小谷城攻めのため築いた向かい城
- 長浜城(滋賀県長浜市)… 秀吉が初めて城主となった城
- 一乗谷城(福井県福井市)… 滅ぼされた朝倉氏の城下町。焼けたまま埋もれて残った
- 金ヶ崎城(福井県敦賀市)… 命がけの撤退戦の舞台
よくある疑問
Q. 浅井長政はなぜ裏切ったのですか?
A. 朝倉氏との旧来の同盟を重んじたためとされます。信長が朝倉を攻めたことで、妻の兄と父祖以来の盟友のどちらを取るかを迫られました。
Q. 姉川の戦いは決定的な勝利だったのですか?
A. 織田・徳川の勝利ですが、浅井・朝倉は滅んでいません。小谷城が落ちるまで、さらに三年かかっています。
Q. 秀長はこの時期に何をしていましたか?
A. 兄の配下として各地を転戦し、長浜期には留守を預かる立場になっていきます。補佐役としての役割がここで固まりました。
イラストで見る武将・姫たち
この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。
- 浅井長政 … 信長に背き、小谷城で自害した北近江の大名
- お市の方 … 小谷城を出て、のちに北ノ庄で最期を迎える
- 織田信長 … 妹婿を滅ぼし、比叡山を焼いた
- 豊臣秀吉 … この戦いの恩賞で北近江三郡と長浜城を得た
- 豊臣秀長 … 長浜期から兄の留守を預かる立場に
- 徳川家康 … 姉川で織田方として戦った同盟者
まとめ
この五回は、身内が敵になる三年間である。
妹婿を滅ぼし、比叡山を焼き、朝倉を絶やす。信長の「残虐」なイメージは、ほぼこの時期に作られた。
そしてその戦いの恩賞として、秀吉は初めて自分の城を手に入れる。長浜。のちに柴田勝家の養子が降り、賤ヶ岳の引き金になる城でもある。
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