豊臣兄弟!第13〜17回 史実解説|姉川・比叡山・小谷落城、通説はどこまで正しいのか

虎御前山城/アクセス・場所・地図 浅井長政の小谷城攻めのために築かれ木下藤吉郎が城番した虎御前山城
この記事のポイント

  • 元亀元年(1570)、浅井長政が離反。信長は金ヶ崎から命がけの撤退をする
  • 同年六月姉川の戦い。ただし「姉川」という呼び名は織田側の呼称で、浅井側は野村合戦と呼んだ
  • 元亀二年(1571)比叡山焼き討ち。犠牲者数には諸説あり、近年の発掘では通説より小規模との見方も
  • 天正元年(1573)小谷城落城。お市は三人の娘とともに城を出る
▽ よく語られる話
金ヶ崎の退き口で殿(しんがり)を務めたのは秀吉だった。この武功が出世の足がかりになった。
▼ 史実ではこうです
殿は秀吉ひとりではありません。明智光秀や池田勝正らも担ったとする史料があります。秀吉単独の武功とするのは後世の脚色を含みます。また「姉川の戦い」という名前も織田側の呼び方で、浅井側は「野村合戦」と呼びました。戦いの名は、記録を残した側がつけます。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第13回「疑惑の花嫁」から第17回「小谷落城」まで。同盟者だった浅井長政が離反し、三年をかけて滅ぼされるまでの五回である。

この時期は、秀吉が「将」として認められた時期でもある。そして秀長の名が、はっきり記録に現れはじめる。

小谷城跡。浅井三代の居城で、日本五大山城のひとつに数えられる

目次

この五回で実際に起きたこと

  • 元亀元年(1570)四月… 越前攻めの最中に浅井長政が離反。金ヶ崎の退き口
  • 同年六月姉川の戦い。織田・徳川が浅井・朝倉を破る
  • 元亀二年(1571)九月比叡山焼き討ち
  • 元亀三年(1572)… 信長が虎御前山城を築き、小谷城を包囲
  • 天正元年(1573)八月… 朝倉義景滅亡、小谷城落城。浅井長政自害
  • 同年… 秀吉が北近江三郡を与えられ、長浜へ

補助線①:金ヶ崎の退き口で、秀吉は何をしたのか

浅井の離反で、信長は前後を挟まれた。撤退は全滅と紙一重である。

このとき殿(しんがり)を務めたのが秀吉だと語られる。ただし殿は秀吉一人ではなく、明智光秀や池田勝正らも担っていたとする史料もあり、秀吉単独の武功とするのは後世の脚色を含む。

とはいえこの撤退戦を生き延びたことが、秀吉を「戦のできる男」として印象づけたのは確かだろう。

補助線②:「姉川の戦い」という名前は、勝った側の呼び方

細かいようだが、面白い点である。

「姉川の戦い」は織田・徳川側の呼び名で、浅井側は「野村合戦」と呼んだと伝わる。戦いの名前は、たいてい記録を残した側がつける。

また徳川家康の奮戦が有名だが、これも徳川の記録が江戸時代に整えられた影響が大きい。合戦の実像は、勝者と後世の都合で形を変える。

補助線③:比叡山焼き討ちは、どこまでの規模だったのか

「僧俗数千人を皆殺しにした」と伝わる比叡山焼き討ち。近年の発掘調査では、通説ほどの大規模な焼失痕が確認されていないという指摘がある。

虐殺そのものを否定する話ではない。ただ数字と範囲については、記録が誇張された可能性が議論されている。

信長の「残虐なイメージ」は、この一件で決定づけられた。だからこそ、その根拠がどこまで確かなのかは押さえておく価値がある。

補助線④:お市の一度目の落城

天正元年八月、小谷城が落ちる。浅井長政は自害し、お市の方は三人の娘とともに城を出た。

茶々・初・江。のちに豊臣と徳川の両方へ血をつなぐ三姉妹は、この落城から始まっている。

そして十年後、お市は北ノ庄城で二度目の落城を迎え、今度は城に残る。

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お市の方と浅井三姉妹:二度の落城を生きた信長の妹

小谷と北ノ庄。二度の落城でお市が選んだものが違いました。

なぜお市は、小谷では城を出たのか

のちの北ノ庄と比べると、この違いは際立つ。

小谷城が落ちるとき、お市は三人の娘とともに城を出た。夫・浅井長政は自害し、嫡男の万福丸は殺されている。それでもお市自身は生きて出ている。

理由として考えられるのは、兄・信長がまだ生きていたことだろう。攻めたのは兄であり、迎え入れる先も兄だった。帰る場所があった。

そして十年後の北ノ庄では、信長はすでに本能寺で死んでいる。帰る先がない。

この差が答えかどうかは、わからない。ただ、一度目には兄がいて、二度目にはいなかった。それだけは事実である。

補助線⑤:ここで秀吉が「城持ち」になる

浅井滅亡の恩賞として、秀吉は北近江三郡を与えられた。そして小谷城には入らず、琵琶湖畔に新しい城を築く。長浜城である。

山城を捨てて、水運の使える平城を選んだ。戦うための城ではなく、水と人と金が集まる城。ここにも秀吉の性格が出ている。

そして弟の秀長が、この長浜で兄の留守を預かるようになる。「補佐役・秀長」がはっきり形になるのは、この時期からである。

長浜城。秀吉が初めて城主となった城。山城ではなく琵琶湖畔の平城を選んだ

現地はいま

  • 小谷城(滋賀県長浜市)… 浅井三代の城。落城の舞台
  • 虎御前山城(滋賀県長浜市)… 信長が小谷城攻めのため築いた向かい城
  • 長浜城(滋賀県長浜市)… 秀吉が初めて城主となった城
  • 一乗谷城(福井県福井市)… 滅ぼされた朝倉氏の城下町。焼けたまま埋もれて残った
  • 金ヶ崎城(福井県敦賀市)… 命がけの撤退戦の舞台

よくある疑問

Q. 浅井長政はなぜ裏切ったのですか?
A. 朝倉氏との旧来の同盟を重んじたためとされます。信長が朝倉を攻めたことで、妻の兄と父祖以来の盟友のどちらを取るかを迫られました。

Q. 姉川の戦いは決定的な勝利だったのですか?
A. 織田・徳川の勝利ですが、浅井・朝倉は滅んでいません。小谷城が落ちるまで、さらに三年かかっています。

Q. 秀長はこの時期に何をしていましたか?
A. 兄の配下として各地を転戦し、長浜期には留守を預かる立場になっていきます。補佐役としての役割がここで固まりました。

イラストで見る武将・姫たち

この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。

  • 浅井長政 … 信長に背き、小谷城で自害した北近江の大名
  • お市の方 … 小谷城を出て、のちに北ノ庄で最期を迎える
  • 織田信長 … 妹婿を滅ぼし、比叡山を焼いた
  • 豊臣秀吉 … この戦いの恩賞で北近江三郡と長浜城を得た
  • 豊臣秀長 … 長浜期から兄の留守を預かる立場に
  • 徳川家康 … 姉川で織田方として戦った同盟者

まとめ

この五回は、身内が敵になる三年間である。

妹婿を滅ぼし、比叡山を焼き、朝倉を絶やす。信長の「残虐」なイメージは、ほぼこの時期に作られた。

そしてその戦いの恩賞として、秀吉は初めて自分の城を手に入れる。長浜。のちに柴田勝家の養子が降り、賤ヶ岳の引き金になる城でもある。

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