末森城の戦い:前田利家はなぜ六倍の兵に勝てたのか 加賀百万石が決まった三日間

金沢城:前田利家・前田利長の居城加賀100万石 下町と日本三大庭園兼六園で有名な金沢城
この記事のポイント

  • 天正十二年(1584)九月、佐々成政が約一万五千で能登の末森城を攻めた。城兵はわずか三百
  • 救援に向かった前田利家の兵は二千五百。六倍の敵に対して、利家は正面から当たらず海岸沿いを抜けて背後を突いた
  • 案内したのは地元の農民だった。領国を治めていたことが、そのまま勝因になった
  • 前年の賤ヶ岳では動かなかった利家が、ここでは自ら出た。この差にこそ、この人の行動原理が出ている

天正十一年(1583)の賤ヶ岳で、前田利家は戦わずに戦場を去った。柴田勝家を見捨てた、裏切った——そう語られることの多い場面である。

ところがその翌年、同じ人物が六倍の敵に向かって自分から突っ込んでいる。

末森城の戦い。加賀百万石がここで決まったと言われる、三日間の攻防である。

金沢城石川門。末森城の危急を聞いた利家は、この金沢から救援に出た

目次

なぜ佐々成政は攻めてきたのか

背景にあるのは小牧・長久手の戦いである。

天正十二年、羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄が尾張で対峙した。このとき越中を領していた佐々成政は家康方についた。信長の黒母衣衆筆頭まで務めた男にとって、信長の子である信雄を担ぐ家康のほうが筋が通って見えたのだろう。

一方、隣の加賀・能登を領する前田利家は秀吉方である。本戦は尾張で行われていたが、北陸ではこの二人がそのまま代理戦争を戦うことになった。

成政が狙ったのが、加賀と能登をつなぐ位置にある末森城だった。ここを取れば前田領は二つに断ち切られる。急所である。

一万五千対二千五百、城兵は三百

天正十二年九月九日、成政は約一万五千の兵で末森城を包囲した。

対して城を守るのは城将奥村永福・千秋範昌以下、およそ三百。五十倍である。二の丸まで攻め込まれ、落城は時間の問題だった。

報せを受けた利家が金沢から動かせた兵は二千五百。それでも六倍の差がある。常識的には、間に合っても勝てない数だ。

農民が道を教えた

利家は正面から当たらなかった。

高松村の農民桜井三郎左衛門の案内で、佐々軍の手薄な海岸沿いの道をたどり、北川尻を越えて今浜まで進む。そして九月十一日の明け方、包囲していた佐々軍の背後に現れた。

両軍あわせて七百五十人余りが倒れる激戦のすえ、成政は越中へ退いた。末森城は保たれた。

ここで見落とせないのが、道を教えたのが地元の農民だったことである。領地を治めているというのは、いざというとき道を教えてくれる人がいる、ということでもあった。兵の数では六対一だが、この一点で利家が上回っていた。

金沢城の五十間長屋。末森を守り切ったことで、前田家の加賀・能登支配は確定した

賤ヶ岳では動かず、末森では動いた

ここが、この戦いのいちばん面白いところだと思う。

前年の賤ヶ岳で、利家は茂山に布陣したまま戦わずに退いた。ところが末森では、六倍の敵に対して自分から出撃している。同じ人物の、正反対の行動である。

矛盾しているように見えるが、この二つは同じ原理で説明できる。

賤ヶ岳は「他人の戦」だった。利家は柴田勝家の家臣ではなく、信長が付けた与力にすぎない。配属を保証していた信長が本能寺で消えた時点で、そこに留まる根拠は失われていた。

末森は「自分の戦」だった。加賀も能登も自分の領国であり、末森を失えば領地が二つに割れる。守るべきものが目の前にある。

この人は、命じられて戦う人ではなく、自分のものを守るために戦う人だった。そう見ると、賤ヶ岳の撤退も末森の突撃も、同じ一人の人間の一貫した行動として読める。

▶ この続きを読む

前田利家はなぜ賤ヶ岳で退いたのか:裏切りか生き残りか

「裏切り」と語られるあの撤退を、与力という立場から読み直しています。末森と並べて読むと、この人の行動原理がはっきりします。

この三日間が、北陸の地図を書き換えた

末森を守り切った効果は、翌年すぐに現れる。

天正十三年(1585)八月、秀吉は十万の大軍で越中へ攻め込んだ。前年に攻められる側だった利家は、今度は攻める側として先導する立場になっている。

成政は織田信雄の仲介で降伏し、新川郡を除く全領土を没収された。越中はやがて前田のものになり、前田家は加賀・能登・越中の三国を押さえる大大名へ育っていく。

もし末森が落ちていたら、この順序は逆だったかもしれない。領地が二つに割れた前田を、秀吉がそのまま重んじたとは考えにくい。三日間の攻防が、その後の北陸の形を決めたというのは、決して大げさな話ではない。

敗れた成政はどうなったのか

末森で退けられた成政は、それで諦めなかった。

この年の暮れ、彼は真冬の北アルプスを越えて浜松の家康のもとへ向かう。いわゆるさらさら越えである。援軍を得るためではない。もう一度立ち上がってくれと、直接頼みに行ったのだ。

一万五千を動かせる大名が、なぜそこまでしなければならなかったのか。そして、その無茶は何を生んだのか。

▶ この続きを読む

佐々成政はなぜ真冬の北アルプスを越えたのか:さらさら越えと、越中の終わり

末森で敗れた男が、次に選んだのは雪の峠でした。この伝説には、確かめられていない部分もあります。

大河ドラマで描かれない話

末森城を三日間持ちこたえさせた奥村永福という人物について、もう少し触れておきたい。

三百で一万五千を相手に、二の丸まで攻め込まれながら本丸を渡さなかった。もし九月十一日の朝まで持たなければ、利家の奇襲そのものが成立していない。救援は「間に合った」のではなく、間に合うまで持たせた人がいたのである。

戦いは救援に来た側の武功として語られやすいが、この戦いに限っては、耐えた三百のほうが決定的だった。

よくある質問

Q. 末森城はどこにありますか?
A. 石川県宝達志水町、能登半島の付け根にあたる山城です。加賀と能登を結ぶ街道を押さえる位置にあります。※愛知県名古屋市の末森城は同名の別の城です。

Q. なぜ「加賀百万石が決まった戦い」と言われるのですか?
A. ここで敗れていれば前田領は南北に分断され、加賀・能登の支配は成り立ちませんでした。逆に守り切ったことで、翌年の秀吉による越中攻めでは前田が攻める側に回ります。

Q. 兵力差は本当に六倍だったのですか?
A. 佐々軍一万五千、前田軍二千五百と伝わります。戦国の兵力記述には誇張が入ることも多いのですが、圧倒的な劣勢だったこと自体は諸記録が一致しています。

ゆかりの地をめぐる

  • 金沢城(石川県金沢市)… 利家が救援に出た前田家の本拠
  • 富山城(富山県富山市)… 攻めてきた佐々成政の居城
  • 松任城(石川県白山市)… 賤ヶ岳の恩賞として利家が得た城
  • 荒子城(愛知県名古屋市)… 利家が育った尾張の城
  • 春日山城(新潟県上越市)… 北陸の東を押さえた上杉の本城

まとめ

末森城の戦いは、兵力差だけを見れば説明のつかない勝利である。

だが道を知る農民がいたこと、三日間持ちこたえた三百人がいたこと、そして利家自身に「守るべきもの」があったこと——この三つが揃えば、六倍の差は覆りうる。加賀百万石は、この三日間の上に立っている。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!
目次