- 賤ヶ岳の七本槍は、天正十一年(1583)の合戦で秀吉から感状を受けた七人の若武者
- 福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元
- 同じ日に同じ功を認められながら、その後は五十二万石から五千石まで分かれた
- 秀吉には譜代の家臣団がなかった。だから英雄を作る必要があった
天正十一年四月二十一日、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家軍を破った秀吉は、戦後に若い家臣たちへ感状と褒賞を与えた。のちに賤ヶ岳の七本槍と呼ばれる面々である。
七人の名前は挙がっても、その後どうなったかまで並べて語られることは少ない。同じ日に、同じ働きで、同じように認められた七人が、四十年後にはまったく違う場所に立っていた。

長浜城。七本槍の多くは、秀吉がこの城の主だった時代に召し抱えられた子飼いの若者たちだった
七人は誰か
まず顔ぶれを並べる。褒賞の石高には諸説あるが、福島正則が抜きん出て高く、残る六人が同額だったと伝えられる。
- 福島正則(市松)… 五千石。秀吉の母方の縁者とされる
- 加藤清正(虎之助)… 三千石。秀吉と同じ尾張中村の出
- 加藤嘉明(孫六)… 三千石
- 脇坂安治(甚内)… 三千石。七人のうち最年長
- 平野長泰(権平)… 三千石
- 糟屋武則(助右衛門)… 三千石
- 片桐且元(助作)… 三千石。小谷城の麓、須賀谷の生まれと伝わる

小谷城の麓・須賀谷に立つ片桐且元の碑。落城した城のふもとから、七本槍の一人が出ている
「七本槍」は誰が数えたのか
ここで一つ、押さえておきたいことがある。この戦いで感状を受けたのは、本当に七人だったのか。
実は、同じときに感状を与えられた者は九人だったとする説がある。桜井佐吉と石川兵助を加えた数である。石川兵助はこの戦いで討ち死にし、桜井佐吉も早くに世を去った。結果として七人が残った、という見方だ。
また「賤ヶ岳の七本槍」という呼び名そのものが、江戸期の軍記物や講談を通じて広まり定着したという指摘もある。合戦の直後から七人組として括られていたわけではないらしい。
それでも、この呼称が四百年以上生き残ったことには理由がある。七という数が、覚えやすく、語りやすかったからである。
なぜ秀吉は、英雄を作る必要があったのか
ここからが本題だと思う。秀吉はなぜ、若い家臣たちを名指しで顕彰したのか。
信長には織田家臣団があった。家康には三河以来の譜代がいた。秀吉にはそれがない。秀吉と秀長の出自をたどったときに見たとおり、この兄弟は父の名すら確かめられない家から出ている。血縁が薄く、代々仕えてきた家もない。
だから作るしかなかった。柴田勝家という織田家筆頭家老を倒したその戦いで、手柄を立てたのが自分の子飼いの若者たちだったという物語は、これから作る家臣団の核を目に見える形にする。
つまり七本槍の感状は、戦果の記録であると同時に人事の宣言だった。古い家臣団を倒した戦いで、新しい家臣団の名前を天下に告げる。大坂城の普請で全国から資材を集める仕組みを作ったのと同じ手つきが、人にも向けられている。

北ノ庄城址の柴田勝家像。織田家の古い秩序が倒れた戦いが、新しい家臣団の出発点になった
七人のその後 ─ 五十二万石から五千石まで
では、その七人はどうなったか。
加藤清正は肥後半国を与えられ、関ヶ原の後に肥後一国五十二万石の大名となった。熊本城を築き、築城の名手として名を残す。
福島正則は尾張清洲二十四万石を経て、関ヶ原の戦功で安芸広島四十九万八千石。七本槍で最も高く評価された男が、そのまま最大級の大名になった。
加藤嘉明は伊予松山二十万石を経て、会津四十万石へ。松山城を築いている。
脇坂安治は淡路洲本から伊予大洲へ。大洲城の城主となった。
片桐且元は摂津茨木を領し、豊臣家の家老として大坂城に留まった。
糟屋武則は播磨加古川一万二千石。
そして平野長泰は、大和田原本五千石。七人のうちただ一人、最後まで大名にならず、旗本のまま生涯を終えた。
五十二万石と五千石。百倍である。同じ日に同じ戦場で同じ感状を受けた二人が、これだけ離れた。戦場の働きは出発点にすぎず、その後の四十年をどう渡るかがすべてを決めたということになる。
関ヶ原で、七本槍は割れた
七人の運命を決定的に分けたのが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いである。
福島正則は東軍の主力として戦った。加藤清正は九州で、加藤嘉明も東軍に付いた。脇坂安治は西軍として布陣しながら、戦いのさなかに東軍へ寝返っている。
一方、糟屋武則は西軍に付き、戦後に改易された。
そして片桐且元だけが、どちらの陣営にも属さず豊臣家に残った。
ここに、この記事でいちばん書いておきたいことがある。秀吉が自分の家臣団の核として作り上げた七人のうち、四人が、秀吉の家を滅ぼす側に回った。正則は関ヶ原で家康の勝利を決定づけ、清正も嘉明も徳川の大名として生きた。
人事の宣言として作られた七本槍は、作った本人が死んだ十七年後、その家を潰す力になっていた。
大河で描かれない話
片桐且元の最後は、七人のなかでもとりわけ苦い。豊臣家の家老として徳川との交渉にあたった且元は、慶長十九年(1614)の方広寺鐘銘事件で対応を誤ったとされ、淀殿らに内通を疑われて大坂城を退去する。そして大坂夏の陣で豊臣家が滅んだ直後、後を追うように世を去った。最後まで豊臣にいた男が、最後は豊臣から追われている。
その且元が生まれたのは、小谷城の麓の須賀谷である。浅井氏が滅んだ土地から出た少年が、秀吉に仕えて七本槍に数えられ、豊臣家の最後を看取った。

大坂城。片桐且元が家老として詰め、そして追われた城
もう一人、福島正則の末路も触れておきたい。関ヶ原で徳川に最大級の貢献をした正則は、元和五年(1619)、広島城を無断で修築したことを咎められて改易される。四十九万八千石から信濃四万五千石へ。豊臣を裏切った者も、徳川に残れたわけではなかった。
そして平野長泰。大名になれなかった彼の家は、旗本として幕末まで続いた。大名は改易され、旗本は残る。出世しなかったことが、結果として家を保ったという見方もできる。
よくある質問
Q. 賤ヶ岳の七本槍とは何ですか。
A. 天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで功を挙げ、豊臣秀吉から感状と褒賞を受けた七人の若い家臣を指す呼び名です。福島正則・加藤清正・加藤嘉明・脇坂安治・平野長泰・糟屋武則・片桐且元の七人です。
Q. 本当に七人だったのですか。
A. 同時に感状を受けたのは九人だったとする説があります(桜井佐吉と石川兵助を加える)。石川は戦死し、桜井も早世したため、結果的に七人が語り継がれたと考えられています。
Q. 一番出世したのは誰ですか。
A. 石高では加藤清正の肥後五十二万石が最大です。福島正則の安芸広島四十九万八千石がこれに次ぎます。
Q. 大名にならなかった人はいますか。
A. 平野長泰です。大和田原本五千石の旗本のまま生涯を終えました。ただし家は旗本として幕末まで存続しています。
ゆかりの地をめぐる
- 長浜城(滋賀県長浜市)… 秀吉が初めて城主となった城。子飼いの若者たちが集まった場所
- 小谷城(滋賀県長浜市)… 片桐且元の生地・須賀谷が麓にある
- 北ノ庄城(福井県福井市)… 敗れた柴田勝家が最期を迎えた城
- 熊本城(熊本県熊本市)… 加藤清正が築いた城
- 松山城(愛媛県松山市)… 加藤嘉明が築いた城
まとめ
賤ヶ岳の七本槍は、勇壮な武功譚として語られることが多い。だが並べ直してみると、これは譜代の家臣を持たない男が、自分の家臣団を作ろうとした記録でもある。
そして四十年後、その七人は五十二万石から五千石まで散らばり、関ヶ原では敵味方に分かれ、四人が豊臣家を滅ぼす側に立った。作られた英雄は、作った者の思い通りには動かない。
秀吉が生涯かけて集めたもの——石と材木、関白という地位、妹と母、そしてこの七人。そのどれもが、彼の死後に散っていった。弟の秀長を失ったあとの豊臣家に、それらを束ね直せる者はいなかったのである。

