【上山城とは】
山形県上山市元城内にある上山城は、月岡の高みに築かれた平山城で、「月岡城」の別名をもつ。出羽と奥州を結ぶ街道の要にあたり、南から伸びる伊達氏と北の最上氏がぶつかる最前線として、戦国期には何度も主が入れ替わった。江戸時代には二万五千石から三万石の小藩の居城となりながら、白壁の城壁をめぐらせた姿は「奥羽の名城」とうたわれたと伝わる。現在の天守風の建物は昭和五十七年(1982)に旧二の丸跡へ建てられた郷土資料館で、かみのやま温泉の町を見下ろしている。

月岡の高みに建つ上山城。石垣の上にそびえる姿が城下のどこからも見える
【高楯城から月岡城へ — 伊達と最上のはざまで】
城の歴史は室町時代の応永年間、西暦1400年前後にさかのぼる。羽州探題・最上氏の祖である斯波兼頼の曾孫・里見満長がこの地に着封し、「上山殿」と称して虚空蔵山に山城を築いた。これが高楯城(亀ヶ岡城)で、上山城の前身にあたる。
戦国の争奪はここから始まる。永正十一年(1514)、城は伊達稙宗に攻略された。翌年に和睦していったん返されたものの、五年後にはふたたび奪われている。奪回を果たしたのは天文四年(1535)、満長の子孫にあたる武衛義忠だった。義忠は同じ年に高楯城を廃し、天神森と呼ばれた現在地に新たな平山城を築く。これが月岡城、すなわち上山城である。山城から平山城へという築城の潮流を、そのまま体現した移転だった。
以後の城主は武衛氏三代、里見氏と続く。慶長五年(1600)の慶長出羽合戦では、長谷堂城とともに上杉勢の攻勢を受けながら、上山城は最上方の拠点として持ちこたえた。だが元和八年(1622)、山形城の最上氏が改易されると、この城もまた新しい時代へ入っていく。旧最上領は細かく分割され、庄内には鶴ヶ岡城の酒井氏が、最上郡には新庄城の戸沢氏が入った。

城内の案内板「出羽国 上山城沿革」。高楯城から月岡城への移転が詳しく記されている
【沢庵和尚と土岐頼行】
最上氏改易ののち、上山には能見松平氏、蒲生氏らが入り、寛永五年(1628)から土岐氏二代が二万五千石で治めた。十七世紀後期の土岐氏の時代に城はもっとも整い、白壁の城壁が四季の緑と紅葉に映えたという。
この土岐頼行のもとに、思いがけない客が滞在している。紫衣事件で幕府に抗い、出羽へ流された大徳寺の僧・沢庵である。頼行は罪人として送られてきた高僧を厚く遇し、草庵「春雨庵」を建てて住まわせた。城内に残るレリーフは、そのとき頼行が「政について心得るべきことは何か」と問い、沢庵が「上中下の三字」で答えた逸話を刻んだものだ。上は為政者、下は領民、その二つを取り結ぶのが中であり、中の字は口に上下の縦線を貫く形をしている──言葉によって意思が通うのだ、と沢庵は説いた。若い藩主に向けた、政治の要諦である。

沢庵和尚が藩主・土岐頼行に説いた「上中下三字説」を刻んだレリーフ
【跡形もなく壊された城】
ところが元禄五年(1692)、土岐氏が転封になった直後、幕府の命によって上山城は跡形もなく破壊されてしまう。小藩の分不相応な名城が警戒されたとも言われるが、いずれにせよ城は一夜にして消えた。
以後、上山藩は金森氏、藤井松平氏三万石と続き、十代・百七十余年にわたって代々の藩主が城の再建を宿願としたが、ついに再築は許されなかった。周囲の堀も明治五年に埋め立てられ、いまは城の西側にわずかな内堀の名残をとどめるのみである。城下町の基盤をつくり領民から名君と慕われた土岐家をしのんで、平成十五年には江戸の土岐家上屋敷にあった七層塔が上山へ移された。

江戸・芝西久保の土岐家上屋敷にあった七層塔。高さは約三メートル
【いまの上山城】
現在の上山城は、昭和五十七年(1982)に旧二の丸跡へ城郭風の郷土資料館として建てられたものである。史実の天守がここに建っていたわけではないが、内部では上山の歴史と民俗の資料が公開され、最上階の展望台からは蔵王の山なみと城下町が一望できる。城のふもとには開湯五百年を超えるかみのやま温泉が広がり、月岡神社や武家屋敷とあわせて歩けば、失われた城の輪郭が町のかたちのなかに浮かび上がってくる。

天守の正面入口。郷土資料館として上山の歴史を伝えている

城の下を通る道から天守を見上げる。小藩ながら奥羽の名城とうたわれた城の跡である
【上山城・場所・アクセス】
〒999-3154 山形県上山市元城内3-7
【上山城地図】

