斎藤義龍はなぜ父・道三を討ったのか|一万七千五百と二千七百 ─ 長良川の兵の数が語る、美濃が選んだもの

岐阜城の天守と「道三・信長ゆかりの岐阜城」の看板
この記事のポイント
  • 道三は長男の義龍に家督を譲りながら、弟たちに目をかけていたと伝わります。そこから不和が始まりました
  • 弘治元年、義龍は病と偽って弟二人を招き、討ち取ります。翌年四月、父子は長良川で戦いました
  • 兵の数は義龍方が一万七千五百、道三方が二千七百。およそ六倍半の開きがありました
  • この差が答えに近いと思います。美濃の武士の多くは、国を奪った道三の側に来なかったのです

斎藤道三が息子に討たれた話は、「蝮と呼ばれた男の因果応報」として語られがちです。ただ、父子の仲たがいだけでは説明のつかないことがあります。長良川に並んだ兵の数です。家督を譲られた側とはいえ、義龍は一万七千五百、道三はわずか二千七百。美濃という国が、どちらを選んだのかがはっきり出ています。ここでは、その数に至るまでを順にたどります。

斎藤道三のイメージ(イラスト)
斎藤道三のイメージ(イラスト)。美濃を手に入れながら、美濃の武士に受け入れられることはありませんでした
岐阜城の天守から見た長良川と岐阜の町
岐阜城の天守から見た長良川と岐阜の町。父子が戦ったのは、この川のほとりでした(岐阜城(稲葉山城))
目次

家督を譲ったあとに起きた不和

道三が美濃を手に入れた経緯は、長く「一代の成り上がり」として語られてきました。油売りから身を起こし、守護の土岐氏を追い出して国を奪った、という筋です。ただ近年は、父の代から二代がかりで進めた乗っ取りだったとする見方が有力になっています。いずれにせよ、道三が旧来の支配をひっくり返して美濃を取ったことに変わりはありません。

斎藤家のつながり土岐頼芸美濃の守護深芳野もと頼芸の側室斎藤道三美濃を取った男義龍長男。家督を継ぐ孫四郎道三が目をかけた喜平次同じく弟帰蝶信長の正室織田信長点線は「噂」です。深芳野はもと頼芸の側室で、道三に下げ渡されたと伝わります。そこから「義龍は頼芸の子ではないか」という話が生まれましたが、確かめるすべはありません。道三は長男の義龍に家督を譲りながら、弟たちに目をかけていたと伝わります。その不和が、弘治二年の長良川につながっていきます。

天文の終わりごろ、道三は家督を長男の義龍に譲り、自身は鷺山に退きます。ところがその後、道三は弟の孫四郎や喜平次に目をかけるようになったと伝わります。義龍の側から見れば、いったん継がせておいて、やはり弟に、という話です。

弟たちの死と、父子の決裂

弘治元年、義龍は病と称して弟たちを自分のもとへ呼び寄せ、その場で討ち取ります。一族の長井道利が手引きをしたと伝わります。

知らせを受けた道三は城を出ました。町に火を放ち、長良川の方へ退いたといいます。この時点で、もはや話し合いの余地はありません。翌弘治二年四月、父子は川を挟んで向き合いました。

長良川に並んだ数

長良川に並んだ兵の数弘治二年四月、美濃・長良川。伝えられている兵数です義龍方一万七千五百道三方二千七百およそ六倍半の差です。道三は戦下手ではありません。前半はよく戦ったと伝わります。それでもこの数になったのは、美濃の武士の多くが道三のもとへ来なかったからでした。父と子の争いというより、美濃がどちらを選んだかという話に近いのだと思います。

道三は前半、よく戦ったと伝わります。しかし川を渡られて押し包まれ、討ち取られました。享年は六十三とされます。

娘婿の織田信長が救援に向かいましたが、間に合いませんでした。退くときには自ら殿をつとめ、鉄砲で追撃を食い止めたといいます。

なぜ美濃は義龍についたのか

ここがこの一件の芯だと思います。

道三は国を奪った人です。守護だった土岐氏を追い、その家臣だった者たちの上に立ちました。力で押さえているあいだは従いますが、心から仕えていたかというと別の話です。美濃には、もとの秩序に戻りたい者、道三のやり方を快く思わない者が数多くいました。

そこへ、道三の長男でありながら「母は土岐頼芸の側室だった」と噂される義龍が立ちます。旧来の武士たちにとっては、担ぎやすい相手でした。義龍につけば、土岐の血に戻るという名目も立つ。一万七千五百という数は、そうして集まったものだと考えると腑に落ちます。

逆に言えば、道三は二十年かけて国を取りながら、国の武士の心までは取れていなかった。息子に討たれたというより、美濃に見限られた、というほうが実態に近いのかもしれません。

「義龍は土岐頼芸の子」という話

この噂は、義龍の母・深芳野がもと土岐頼芸の側室で、道三に下げ渡されたあとまもなく義龍を産んだ、という筋から来ています。

ただ、これを確かめるすべはありません。当時の人にも分からなかったはずです。むしろ大事なのは、真偽ではなく「そういう話が流れていたこと」のほうだと思います。義龍を担ぐ側にとって、これほど都合のよい話はありません。父を討つのではなく、土岐の血が戻るのだ、という形になるからです。

義龍自身がこの噂をどう扱ったのかは分かりません。ただ、のちに姓を一色に改めています。土岐氏とつながる名門の名です。

そのあと ─ 三代で終わった斎藤家

義龍は父を倒して美濃を握りますが、長くは続きませんでした。三十五で世を去り、子の龍興が跡を継ぎます。

この龍興の代に、家臣の竹中半兵衛がわずかな人数で稲葉山城を奪うという出来事が起きます(竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りとは)。城はすぐ返されましたが、斎藤家の屋台骨が傾いていたことを示す一件でした。

そして織田信長の美濃攻め。墨俣に城が築かれ(墨俣一夜城はどう築かれたのか)、稲葉山城はついに落ちます。信長はここを岐阜と改め、天下布武を掲げました。道三が取った国は、娘婿の手に渡ったことになります。岐阜城はなぜ廃城になったのかでは、その城のその後を追っています。

道三は死の前に、美濃を信長に譲るという書状を残したと伝わります。本当にあったかどうかは確かめられませんが、結果だけ見れば、そのとおりになりました。

よくある疑問

Q. 義龍が父を討った直接のきっかけは何ですか?
A. 道三が弟の孫四郎・喜平次に目をかけ、義龍を軽んじるようになったことです。義龍は先に弟たちを討ち、父との決裂が決定的になりました。

Q. 長良川の戦いはいつですか?
A. 弘治二年四月です。美濃の長良川のほとりで戦われました。

Q. なぜ道三の兵はそんなに少なかったのですか?
A. 美濃の武士の多くが道三のもとへ来なかったためです。国を奪われた側の家臣たちにとって、道三は心から仕える相手ではありませんでした。

Q. 義龍は本当に土岐頼芸の子だったのですか?
A. 分かりません。母の深芳野がもと頼芸の側室だったことから生まれた噂で、確かめるすべがありません。

Q. 信長は助けに来なかったのですか?
A. 来ましたが間に合いませんでした。退却の際は自ら殿をつとめ、鉄砲で追撃を食い止めたと伝わります。

Q. 道三の国盗りは一代でなされたのですか?
A. 近年は、父の代から二代がかりで進められたとする見方が有力です。油売りから一代で、という筋は後の世に整えられたものと考えられています。

まとめ

斎藤義龍が父を討った直接の理由は、家督をめぐる不和です。ただ、長良川に並んだ一万七千五百と二千七百という数を見ると、それだけの話ではないことが見えてきます。美濃の武士たちは、国を力で奪った道三ではなく、土岐の血につながると噂された義龍を選びました。道三は国を取ることには成功し、国に受け入れられることには失敗した。父子の争いの形をとっていますが、中身は美濃という国の選択だったのだと思います。

筆者はこう思う

美濃の蝮と恐れられた道三も、まさか家督のもつれから自分が討たれることになるとは、思ってもみなかったでしょう。しかも美濃を娘婿の信長に譲るという書状まであったとか、なかったとか。もし義龍がそれを知っていたのなら、動くしかなかったのかもしれません。

ただ、ひとつ確かなことがあります。義龍は、道三が思っていたよりずっとしっかりした男で、重臣たちの支持も得ていたということです。

それはそのあとの数年が証明しています。信長は何度も美濃へ手を伸ばしましたが、義龍が生きているあいだ、美濃を切り取ることはできませんでした。稲葉山が落ちたのは、義龍が三十五で世を去り、子の龍興の代になってからです。

道三は、息子を見誤っていたのだと思います。

一代で築いた美濃の地位を、こういう形で失う。それもまた戦国なのだと思いました。

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