秀長はなぜ商人に金を貸したのか:戦国は大名が借りる側だった、その逆を回した郡山の町づくり

大和で検地を行う役人と庄屋のイメージ(イラスト)

戦国の世では、大名が商人から借りるのが普通でした。島井宗室も神屋宗湛も、大名に金を貸して富を築いた側です。ところが秀長は逆をやっています。城下に商人を呼ぶために借り賃を免じ、開業の元手を貸し付けた。「蔵に置くより、富を生むものに銭は貸すべき」── 戦国大名の言葉としては、かなり珍しい部類です。

▶ この記事でわかること
  • 戦国の大名と商人の、ふつうの金の流れ
  • 大名が商人に貸すことの何が異例なのか
  • 地子免除と貸し付けという二枚の手札
  • 秀長が実際に貸した記録
  • なぜ大和ではこれが必要だったのか
目次

ふつうは、大名が借りる側だった

戦国の大名は、慢性的に金が足りません。城を建て、兵を養い、鉄砲と火薬を買う。収入は年貢ですが、入るのは年に一度です。

だから商人から借りました。博多の島井宗室は酒屋と質屋を営みながら「九州全域の諸大名に接触をもつ実力者」として金銀を貸し付け、それで富を築いています。御用商人が得たものを見ても、今井宗久は摂津に二千二百石と塩の徴収権と銀山の支配、津田宗及は三千石。商人が大名に食い込む構図です。

秀吉自身も同じでした。堺に矢銭二万貫を課し、商人と手を結んで天下を取っています。

秀長は、逆をやった

▽ よく語られる話
秀長は商人を保護した名君だった。
▼ 史実ではこうです
保護というより投資に近い考え方です。借り賃を免じ、開業の元手を貸す。これは施しではなく、町に人を呼んで年貢と商いの税を増やすための先行投資です。実際、三年後の郡山には十三の町ができて、地子を免除された「内町」とされました。免除した分を、町の繁盛で取り返すという計算です。

手札は二枚でした。

▶ 商人を呼ぶための二枚
  • 地子の免除 店を構える土地にかかる税を取らない。原価が軽くなるので、同じ品を安く売れる。美濃の加納に出された制札にも「借銭借米地子諸役免許」とある
  • 開業資金の貸し付け 店を畳んで移るには元手が要る。そこを出してやれば、動けない商人が動ける

免除だけなら他の大名もやっています。貸し付けまで仕組みにしたところが秀長の特徴です。

実際に貸した記録がある

これは台詞の上だけの話ではありません。

天正十七年十月五日、秀長が奈良町と郡山町へ公金を貸し付けた記録が残っています。町という単位への貸付です。個人の商人に融通したのではなく、町ぐるみで金を回す仕組みを作っていたことになります。

この人の仕事は、だいたいこういう種類のものです。武勇伝ではなく、帳簿と文書に残る仕事。検地、城と町の普請、兵糧の手配、そして金の算段。

貸す側にとって、大名は危ない客だった

商人が大名に金を貸すのは、実はかなりの賭けでした。

まず、踏み倒されても訴える先がありません。相手が領主なのですから。そしてもうひとつ怖いのが徳政です。徳政令が出れば借金は帳消しになります。貸した側は丸損です。

だから信長が安土の町に出した十三か条の掟書には、こういう条文が入っていました。分国で徳政を行っても、この町では免除する。つまり安土で貸した金は棒引きにならない、という保証です。楽市の中身は商売の振興より、こうした住民の保護に紙幅が割かれています。

切れたら終わり、という危うさもありました。博多の島井宗室は朝鮮への出兵に反対して秀吉に睨まれています。御用商人は保護されているのではなく、従属している。だから大名との付き合いは、おいしくもあり危なくもありました。

なぜ大和でそれが必要だったのか

秀長が入った大和という国は、土地としては豊かなのに国主の取り分だけが細い国でした。田も商いも寺社の権利で細かく分かれていて、守護が置かれても実権は寺にある。戦国大名が育たなかった国です。

しかも商いは奈良に集中していて、座が押さえていました。新しく城下町をつくっても、人が来なければただの空き家の並びです。

だから秀長は、まず商いの場所そのものを動かすことにしました。天正十三年十月、奈良での商売を禁じ、郡山で商えと命じます。味噌も酒も海草も含めてです。そのうえで移ってきた者に、借り賃の免除と元手の貸付を用意した。追い出して、受け皿を作るという両面作戦でした。

では、借りる側の商人はどうだったか

逆から見ると、秀長の貸付がどれほど珍しいかが分かります。

商人が店を移すというのは、客も仕入れ口も信用も置いていくことです。奈良の豪商が動かなかったのは、意地ではなく計算でした。奈良には寺という最大の客があり、座という保証があり、何代も続いた店がある。移る理由がありません。

そこへ「借り賃は要らない、元手も貸す」と言われたらどうか。移転の損を、二枚のうちの一枚ずつで埋めていくやり方です。それでも奈良の大店は動きませんでした。動いたのは、座の外に出ざるをえなかった者からです。

職人が座を出て自分の店を持つというのは、本来かなり難しいことでした。材料の仕入れ口を押さえられてしまうからです。そういう人にとって、元手を貸してくれる国主は、ほかにない機会でした。

蓄財との関係

ところで秀長は、死後に大坂城へ金銀を山と積んでいたと伝わります。『多聞院日記』に、その量を伝える記述があります。

▽ よく語られる話
秀長は領民思いの名君で、だから慕われた。
▼ 史実ではこうです
近年は違う読み方も出ています。大和に入った秀長は、検地で興福寺の寺領を入国前の五分の一まで削りました。研究者のなかには、五年半で莫大な蓄財をした点を挙げて「兄よりも苛烈な搾取」と評する人もいます。蓄財と投資は、同じ人の同じ政策の裏表と見るべきでしょう。

ただ、貯めるだけの人ではなかったことも確かです。「蔵に置いても仕方ない」という考え方は、金を回す発想です。回し方を知っていたから貯まったと見るほうが、この人には合っている気がします。

よくある質問

地子とは何ですか。
店や家を構えている土地にかかる税です。いまでいう家賃や固定資産税に近いもので、免除されると原価がその分軽くなります。

貸した金は返ってきたのですか。
個々の貸付の回収を示す記録は見当たりません。ただ、三年後に十三の町ができて箱本という自治の仕組みに育っているので、町としては成り立ったことになります。

ほかの大名はやらなかったのですか。
地子の免除は各地でやっています。信長の楽市令にも「借銭借米地子諸役免許」とあります。ただ、大名が商人に元手を貸す例は多くありません。

まとめ

戦国の金の流れは、商人から大名へ向かうのがふつうでした。秀長はその逆を回しています。借り賃を免じ、元手を貸し、町を作って、そこから税を取る。

三か国を抱えて郡山を長く空けていた人が、町づくりの元手だけは自分で出すと決めた。そこにこの人の優先順位が出ています。

名君だったからではなく、そうしなければ大和という国は立ち行かなかったからです。寺社に権利を握られた国で、国主が自分の収入を作るには、新しい町を一から作るしかありませんでした。

▷ 大河ドラマではこう描かれました
第三十八回で、秀長は家臣に「策はほとんど無きに等しい」と認めたうえで、借り賃の免除と当座の出店料の貸し付けを示します。そして「蔵に銭を置いておいても仕方ない」「蔵に置くより、富を生むものに銭は貸すべき」と言いました。
放送と再放送
本放送は日曜 午後8時(NHK総合)、日曜 午後6時(NHK BS)、日曜 午後0時15分(BSプレミアム4K)。再放送は翌週土曜 午後1時05分(NHK総合)と、日曜 午後6時(BSプレミアム4K)です。
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