- 天正十二年(1584)の暮れ、佐々成政は真冬の北アルプスを越えて浜松の徳川家康を訪ねたと伝わる。これがさらさら越え
- 目的は援軍ではない。秀吉と和睦してしまった家康に、もう一度立ってくれと直訴するためだった
- 家康は動かなかった。翌年、成政は十万の大軍に包囲されて降伏する
- ただしこの山越えは経路も史実性も確定していない。それでも語り継がれたのは、「成政ならやりかねない」と誰もが思ったからである
末森城の戦いで前田利家に退けられた佐々成政は、それで手を引かなかった。
次に彼が選んだのは、真冬の北アルプスだった。

富山城。佐々成政が越中一国の主として拠った城(現在の天守は昭和の模擬天守)
信長の黒母衣衆から、越中一国の主へ
そもそも佐々成政とは、どういう経歴の人だったのか。
尾張の出身で、若くして織田信長に仕えた。永禄十年(1567)には黒母衣衆の筆頭——信長の直属精鋭部隊の長である。前田利家が赤母衣衆にいたのと、ちょうど対になる立場だった。この二人は、出発点からほとんど並んで走っている。
そして天正九年(1581)、富山城に入って越中一国の守護となる。信長の北陸方面軍の一翼として、上杉と向き合う最前線を任された形だ。
翌年、本能寺の変が起きる。この瞬間から、並んで走っていた二人の道が分かれた。利家は秀吉に寄り、成政は寄らなかった。ただそれだけの違いが、六年後には生死を分けることになる。
はしごを外された
成政が家康方についたのは、小牧・長久手の戦いにおいてである。信長の子・織田信雄を担ぐ家康の側に、彼は筋を見た。
ところが天正十二年十一月、家康と信雄は秀吉と講和してしまう。尾張の本戦が終わったのだ。
これで困るのは北陸である。成政だけが、秀吉と敵対したまま越中に取り残された。末森では敗れ、東には上杉、西と南には前田。四方を囲まれ、頼りにしていた同盟者は和睦済み。
普通ならここで降伏する。成政はそうしなかった。
雪の峠を越えて浜松へ
彼が選んだのは、家康に直接会いに行くことだった。
ただし東海道は秀吉方に押さえられている。日本海回りも使えない。残るのは山——立山連峰を越えて信濃へ抜け、そこから浜松へ向かう道である。
季節は冬。標高二千数百メートル。現代の装備でも冬季の北アルプス越えは容易ではない。それを戦国の武士が、少人数で越えたと伝わる。これがさらさら越えである。
そして浜松で家康に会い、もう一度秀吉と戦ってくれと説いた。
家康は動かなかった。成政は、来た道を戻るしかなかった。

富山城の石垣。この城を本拠に、成政は越中一国を治めていた
実は「確かなことは不明」である
ここで正直に書いておきたいことがある。
さらさら越えは、経路も史実性も確定していない。針ノ木峠を越えたとする説、ザラ峠を越えたとする説など複数あり、そもそもこの山越えが本当にあったのかについても議論がある。『太閤記』による文学的な脚色と、地元に伝わる伝承が積み重なった結果という見方が強い。
では、この話は無視していいのか。私はそう思わない。
なぜこの伝説だけが生き残ったのか
戦国の逸話は無数にあり、その多くは忘れられた。さらさら越えが四百年語り継がれたのは、「佐々成政ならやりかねない」と、誰もが納得できたからである。
その裏づけは、彼のその後にある。
天正十三年(1585)八月、秀吉は十万の大軍で越中を囲んだ。成政は織田信雄の仲介で降伏し、新川郡を除く全領土を没収される。末森で退けられ、山を越えても実らず、最後は数の暴力に潰された。
ところが話はそこで終わらない。九州平定ののち、成政は肥後一国を与えられる。復活である。
そして彼はそこで、性急に検地を強行した。在地の国人たちが反発して一揆が起き、自力で鎮圧できなかった。責任を問われ、天正十六年(1588)二月、尼崎で切腹を命じられる。検使は加藤清正だった。
雪の峠を越えた男と、肥後で検地を急いだ男は、同じ人物である。筋を通そうとして、通しすぎる。空気を読まない。譲らない。さらさら越えという伝説は、その性格を一枚の絵にしたものだ。史実として確かめられないからといって、この人を理解する上で無意味だとは思わない。
同じ立場で、前田利家は生き残った
並べてみると、対照的な二人である。
成政も利家も、信長の家臣として尾張から出て、北陸に領地を得た。境遇はほとんど同じだ。ところが本能寺のあと、一方は筋を通して滅び、一方は加賀百万石を残した。
利家は賤ヶ岳で戦わずに退き、末森では自分の領国のために突っ込んだ。守るべきものを守り、それ以外では無理をしない。そして前田家は、利家の死後にも一度、家をまるごと失いかねない危機に直面する。
そのとき前田家を救ったのは、武将ではなかった。
大河ドラマで描かれない話
成政には、越中で治水事業を行った施政者としての顔がある。常願寺川に築かれた堤は「佐々堤」と呼ばれ、いまも名が残る。
暴れ川を抑え、田を守る。四年ほどの越中支配で、彼はこの仕事に手をつけていた。猛将・悲劇の武将として語られる人だが、地元に残っているのは戦の記憶よりむしろ堤の名前である。
肥後で急ぎすぎて失敗した検地も、裏を返せば統治しようとしたということでもある。やり方を間違えただけで、やろうとしたこと自体は施政者のそれだった。
よくある質問
Q. さらさら越えはどのルートですか?
A. 針ノ木峠説、ザラ峠説などがあり、確定していません。「さらさら越え」という呼び名自体がザラ峠に由来するとされます。
Q. 本当に真冬に越えたのですか?
A. 史実性については議論があります。ただし成政が浜松へ赴いたこと自体を示す史料はあり、少なくとも「秀吉方の勢力圏を避けて家康に会いに行った」という行動はあったと考えられています。
Q. 家康はなぜ動かなかったのですか?
A. すでに秀吉と講和したあとだったためです。家康にとって再挙のメリットがなく、成政の訴えは通りませんでした。
ゆかりの地をめぐる
- 富山城(富山県富山市)… 成政が越中一国の主として拠った城
- 金沢城(石川県金沢市)… 隣国で対峙した前田利家の本拠
- 春日山城(新潟県上越市)… 東から成政を圧迫した上杉の本城
- 熊本城(熊本県熊本市)… 成政のあと肥後を与えられた加藤清正の城。切腹の検使も清正だった
- 松任城(石川県白山市)… 加賀の要衝。前田方の押さえ
まとめ
佐々成政は、負けたあとに一番無茶をした人である。
末森で退けられ、同盟者に和睦され、それでもなお雪の峠を越えた。その山越えが史実かどうかは確かめられていない。けれど四百年語り継がれたということは、この人がそういう人だと、周りが認めていたということだ。
筋を通す。譲らない。戦国の終わりに、それは長所ではなくなっていた。

