宇都宮城:下野を五百年治めた宇都宮氏の居城 本多正純の大改修と釣天井伝説

宇都宮城の水堀と土塁

【宇都宮城とは】

栃木県宇都宮市本丸町にある宇都宮城は、関東平野の北の縁、田川のほとりに築かれた平城である。平安時代末から戦国時代の終わりまで、およそ五百年にわたって下野を治めた名門・宇都宮氏の居城であり、江戸時代には日光へ向かう将軍の宿城として特別な役割を担った。石垣ではなく高い土塁と広い水堀で守るのが特徴で、平成十九年(2007)に富士見櫓・清明台櫓と土塁・堀の一部が復元され、宇都宮城址公園として市街地の真ん中によみがえっている。

宇都宮城 富士見櫓と水堀に映る土塁

水堀に映る土塁と富士見櫓。石垣を用いず、土で高く積み上げるのが関東の城の流儀だった

【宇都宮氏五百年 — 下野の名門】

宇都宮氏の祖は、平安時代後期に二荒山神社(宇都宮明神)の座主となった藤原宗円と伝えられる。社と一体になって力を蓄えた一族は、鎌倉幕府の有力御家人として下野一国に勢力を張り、常陸の小田城の小田氏とは同じ藤原北家の流れを汲む同族でもあった。城は宗円あるいはその子孫が構えたとされ、以後、居城として代を重ねていく。

戦国期の宇都宮氏は、北から迫る那須氏、南の後北条氏、東の佐竹氏という強敵に囲まれ、佐竹と結んで後北条に対抗する道を選んだ。豊臣秀吉の小田原征伐では秀吉方につき、いったんは所領を安堵される。ところが慶長二年(1597)、宇都宮国綱は太閤検地をめぐる石高の問題と浅野長政との確執から突如改易され、五百年続いた大名家はあっけなく姿を消した。

宇都宮城の土塁と復元された白塀

本丸を囲む土塁の上に復元された白塀。奥に見えるのが富士見櫓

【本多正純の大改修と釣天井伝説】

江戸時代に入り、蒲生秀行、奥平家昌を経て、元和五年(1619)に本多正純が十五万五千石で入った。徳川家康の懐刀・本多正信の子で、当時の幕府で最大の実力者のひとりである。正純は城の大改修に着手し、本丸・二の丸を整え、田川の流路を付け替え、奥州街道を城下へ引き込んで町割りを刷新した。今日見る宇都宮城の姿は、この時期にほぼ固まっている。

ところが元和八年(1622)、正純は突然改易される。のちに講談や芝居が語り継いだのが、将軍秀忠を暗殺するために本丸御殿に釣天井を仕掛けたという「宇都宮城釣天井事件」である。ただし実際に釣天井が見つかった記録はなく、改易の理由は無断の城普請や幕閣内の政争にあったとみられている。城の名を全国に広めたのが、この根拠の乏しい伝説だったというのは皮肉な話である。

その後の宇都宮は、奥平・松平・阿部・戸田といった譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、幕末は戸田家が治めた。城の本丸には将軍が日光社参の際に泊まる「御成御殿」が置かれ、その正面の出入口が清水門だった。将軍はこの門をくぐって御殿へ向かったのである。

宇都宮城 清水門跡の案内板

本丸正面の出入口だった清水門跡の案内板。日光社参の将軍はこの門を通った

【戊辰戦争と焼失、そして復元】

慶応四年(1868)四月、江戸を脱した旧幕府軍が北へ向かう途上、大鳥圭介と土方歳三らが宇都宮城を攻めて奪う。新政府軍はただちに反撃して城を取り返したが、この激戦で城と城下は焼け落ちた。明治に入って建物はすべて失われ、堀も次々に埋め立てられていく。

それでも土塁の一部は市街地に残り続け、平成の復元事業で本丸西側の土塁と水堀、富士見櫓・清明台櫓がよみがえった。清明台は天守を持たなかったこの城で天守の代わりを務めたとも伝えられる櫓で、いま土塁の上から市街を見下ろしている。

宇都宮城 清明台櫓

復元された二重の清明台櫓。天守を持たないこの城の象徴だった

宇都宮城 土塁の上に建つ清明台櫓

土塁の高さは目を見張るほどで、土の城の迫力がよくわかる

【宇都宮城・場所・アクセス】
〒320-0817 栃木県宇都宮市本丸町1-15

【宇都宮城地図】

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