「曲直瀬」と書いて「まなせ」と読む。一度見たら忘れないが、初見ではまず読めない名字である。この姓は、戦国時代の名医・曲直瀬道三が自分で名のりはじめたものだった。では、どんな意味が込められていたのか。道三の先祖はどこから来て、子孫はどうなったのか。『医学天正記』を書いた曲直瀬玄朔の一族を、名字からたどってみる。
※この記事の絵は、当時の様子を描いたイメージ(イラスト)です。
- 「曲直瀬」は初代道三が、父の姓「堀部」から改めて名のった姓
- 由来は中国の古典。『書経』の「木は曲直と曰う」や、川の上流と下流を「直」と「曲」で対比した蘇東坡の一節が挙げられている
- 先祖は近江の佐々木氏の流れをくむ堀部氏と伝わる
- 玄朔の子・玄鑑は後陽成天皇から「今大路」の家号を賜り、子孫は江戸幕府の医官の最高位・典薬頭を代々務めた
- 東京・大手町の「道三堀」「道三橋」は、この一族の屋敷にちなむ地名
「曲直瀬」は、道三が自分でつけた名字
曲直瀬道三は永正四年(1507)、京の上京・柳原に生まれた。父は堀部左兵衛親真と伝わり、道三はもともと「堀部」の家に生まれたことになる。
生まれてまもなく両親を相次いで亡くした道三は、姉やおばに育てられ、十歳で相国寺に入った。「曲直瀬」という姓を名のるようになったのは、この寺での修業のころとされる。
つまり「曲直瀬」は、代々受け継がれてきた家の名ではない。一人の少年が、自分で選んだ名前だった。道三以前に「曲直瀬」を名のった人物は知られていない。
名字の由来 ──「曲がった流れ」と「まっすぐな流れ」
では、なぜ「曲直瀬」なのか。道三自身が由来を書き残したものは見つかっていないが、研究者によっていくつかの手がかりが示されている。
ひとつは、中国の古典『書経』である。万物を木・火・土・金・水の五つで説明する「五行」の考え方を記した洪範篇に、「木は曲直と曰う」という言葉がある。木は曲がりもし、まっすぐにも伸びる、という意味だ。
もうひとつは、玄朔の講義録『東井御釈談』に見える話で、宋の文人・蘇東坡の文章がもとになったというもの。川の上流はまっすぐに清く流れ、下流は曲がりくねる――流れの「直」と「曲」を対比したその一節から、「曲」「直」「瀬」の文字を取ったという。
なぜ「まなせ」と読むのか、その読み方の理由もはっきりしない。いずれにしても、この姓は道三一代で生まれ、その医学とともに広まっていった。
先祖は近江の佐々木氏の流れ
道三の父・堀部親真は、近江の名門・佐々木氏の庶流と伝わる。母は近江の多賀氏の出だという。佐々木氏は、六角氏・京極氏などを出した近江の大族である。
とはいえ、道三の家が武家として力を持っていたわけではない。両親を早くに失い、寺に入って学問で身を立てた道三にとって、家柄よりも学問こそが頼りだった。武家の名を捨てて新しい姓を名のったことにも、そんな生き方が表れているのかもしれない。
道三から玄朔へ ── 血と名をつなぐ
道三の長男は若くして亡くなった。そこで道三が跡継ぎに選んだのが、妹の子、つまり甥の玄朔である。玄朔も幼くして両親を失い、道三に引き取られて育っていた。
天正九年(1581)、玄朔は道三の孫娘を妻に迎えて養嗣子となる。甥を養子にし、そこへ孫娘を嫁がせる。血筋と家の名の両方を、確実に次へつなぐための縁組だった。
玄朔はのちに「道三」の名を継いで二代目道三となり、この家の当主は代々「道三」を名のっていく。
子孫は「今大路家」── 江戸幕府の医官の頂点へ
玄朔と、道三の孫娘とのあいだに生まれたのが玄鑑(げんかん、名は親清)である。
玄鑑は幼いころから徳川秀忠に小姓として仕えた。天正二十年(1592)、十六歳で朝廷から典薬助に任じられ、後陽成天皇から橘の姓と「今大路」の家号を賜った。ここから一族は「今大路家」と呼ばれるようになる。玄鑑もまた「道三」を名のり、三代目道三とされる。
慶長十三年(1608)、玄鑑は秀忠から上総・下総の七百石の知行を与えられた。大坂の陣にも従軍し、のちには東福門院(秀忠の娘・和子)の難産を救ったとも伝わる。寛永三年(1626)、五十歳で亡くなり、箱根湯本の早雲寺に葬られた。
以後、今大路家は半井家とならんで、江戸幕府の医官の最高位である典薬頭を代々務めた。毎年正月には朝廷に参じて天皇の脈をとる、特別な家柄である。
曲直瀬家に伝わった古文書は「曲直瀬家文書」として東京都港区に残り、初代から五代までの道三の自筆文書や書簡、家系図、処方の記録などが、中世から幕末までの百点あまりにわたって伝えられている。
東京に残る「道三堀」と「道三橋」
一族の名は、東京の地名にも刻まれた。
徳川家康が江戸に入った天正十八年(1590)、江戸城の普請の資材を運ぶために、城の近くに堀が掘られた。いまの丸の内・大手町のあたりを東西に流れていたこの堀は、南岸に曲直瀬家(今大路家)の屋敷があったことから「道三堀」と呼ばれるようになる。堀にかかる橋も「道三橋」と呼ばれた。
道三堀は明治の末に埋め立てられ、いまは跡形もない。だが大手町・丸の内の高層ビルの足もとには、道三橋跡の案内板が立っている。江戸城のすぐそばに屋敷を構えた医家が、それだけ重んじられていたことの証しでもある。
「一門」も名を残した ── 岡本玄冶と「玄冶店」
曲直瀬家の影響は、血のつながった子孫だけにとどまらない。
玄朔の門下からは、岡本玄冶・野間玄琢といった名医が出た。なかでも岡本玄冶は、三代将軍家光の痘瘡(天然痘)を治して名を上げ、幕府から江戸の土地を拝領した。玄冶がそこに借家を建てたことから、一帯は「玄冶店(げんやだな)」と呼ばれるようになる。いまの日本橋人形町のあたりで、歌舞伎『与話情浮名横櫛』(切られ与三)の舞台としても知られる地名である。
玄冶は、玄朔と同じ広尾の祥雲寺に眠っている。師と弟子が、同じ寺に葬られていることになる。
よくある質問
Q. 「曲直瀬」はなんと読みますか?
A. 「まなせ」と読みます。曲直瀬道三・曲直瀬玄朔は「まなせ どうさん」「まなせ げんさく」です。
Q. 曲直瀬という名字は今もありますか?
A. 現在もごく少数ながら見られる名字です。ただし、戦国時代の曲直瀬家と直接つながるかどうかは、家ごとに確認が必要です。
Q. 今大路家と曲直瀬家は同じ家ですか?
A. はい。玄朔の子・玄鑑が後陽成天皇から「今大路」の家号を賜ったことで、曲直瀬家の本家は「今大路家」とも呼ばれるようになりました。
Q. 道三堀はどこにありましたか?
A. 江戸城の和田倉門のあたりから、いまの大手町・丸の内を経て呉服橋方面へ続いていました。明治の末に埋め立てられています。
まとめ
「曲直瀬」は、両親を知らずに育った少年が、寺で学んだ古典の言葉から組み立てた名前だった。家柄に頼らず、学問と医術で身を立てた道三らしい名字である。
その名は甥の玄朔へ、玄朔の子・玄鑑へと受け継がれ、「今大路家」として江戸幕府の医官の頂点にまで上りつめた。そしていまも、東京・大手町の「道三堀」の名に、その痕跡が残っている。
曲直瀬道三とは:将軍・信長・毛利元就を診た「日本医学中興の祖」
「曲直瀬」の名をつくった初代道三の生涯。
医学天正記とは:曲直瀬玄朔が書いた戦国のカルテ
二代目道三・玄朔と、秀吉・秀次・輝元のカルテ。
戦国時代の医者はどれくらい稼いだのか
玄朔の仕事と収入。白銀千両の褒美と、七百石の知行。

