豊臣兄弟!第30〜31回「清須会議」史実解説|「勝家が三法師に反対した」は本当か

清洲城/アクセス・場所・地図 織田信長 躍進の城 美しい清洲城
この記事のポイント

  • 清須会議は天正十年(1582)六月。本能寺からわずか三週間後の会議だった
  • 教科書的な「勝家が三法師に反対した」という筋書きは、後世の創作の可能性が指摘されている
  • お市と勝家の婚姻は、秀吉と申し合わせたうえで成立したと勝家自身の書状にある
  • この会議で秀吉が得たのは官職でも領地でもなく、「議題を決める側」という立場だった
▽ よく語られる話
清須会議では秀吉が三法師を推し、勝家が信長三男の信孝を推して激突した。
▼ 史実ではこうです
近年、この対立構図は『川角太閤記』による創作ではないかと指摘されています。三法師を後継とすること自体には異論がなかった、という見方です。争われたのはおそらく遺領の配分と、誰が三法師を後見するかでした。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第30回「清須会議」、第31回「これで、お別れにございます」。信長亡きあとの織田家をどうするかが決まり、お市の方が柴田勝家に嫁ぐまでの二回である。

ここは通説と近年の研究がいちばん食い違っている場面でもある。史実の側から整理しておきたい。

清洲城。織田家の重臣が集まり、信長のあとを決めた場所とされる

目次

この二回で実際に起きたこと

  • 天正十年六月二日… 本能寺の変
  • 六月十三日… 山崎の戦い。秀吉が明智光秀を破る
  • 六月二十七日清洲城で会議。本能寺からわずか二十五日後
  • 会議の決定… 信長の嫡孫・三法師が家督を継ぐ。遺領を重臣で分配
  • 秀吉の取り分… 山城・河内など。勝家は北近江三郡と長浜城を得る
  • 同年後半… お市の方が柴田勝家に嫁ぐ

信長の死から一か月足らずで、織田家の枠組みが決まっている。この速さが、この会議のすべてを説明している。

補助線①:「勝家は三法師に反対した」は本当か

清須会議といえば、秀吉が三法師を推し、勝家が信長の三男・信孝を推して対立したという筋書きで語られてきた。

だが近年、この話は『川角太閤記』という後世の書物による創作ではないかと指摘されている。実際には三法師を後継とすること自体に異論はなかった、という見方である。

では何が争われたのか。おそらく後継者そのものではなく、遺領の配分と、誰が三法師を後見するかだった。

ドラマがどちらの説を採るかはわからない。ただ「教科書で習った清須会議」が近年揺らいでいることは、知っておくと見え方が変わる。

補助線②:勝家は長浜城を得た。それが一年後に効いてくる

この会議で勝家は北近江三郡と長浜城を得ている。秀吉が最初に城主となった、思い入れの深い城である。

勝家はここに養子の柴田勝豊を入れた。

ところが翌天正十一年二月、その勝豊が秀吉に降る。勝家との不和が背景にあったと伝わる。会議で手に入れた城が、一年後には敵の足がかりになっていた。

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柴田方は開戦前からすでに崩れていました。その起点がこの清須会議です。

補助線③:お市の再婚は、秀吉と申し合わせていた

ここは意外に知られていない。

お市と勝家の婚姻は、秀吉と申し合わせたうえで実現したことが、勝家自身の書状からわかっている。

「秀吉と対立する勝家が、対抗するためにお市を娶った」という構図で語られがちだが、少なくとも成立の時点では、二人はまだ話ができる関係だったことになる。

そしてお市にとっては、兄・信長を滅ぼした側ではない相手との再婚である。夫・浅井長政を攻めたのは信長だが、その信長はもういない。

この婚姻から北ノ庄での最期まで、一年に満たない。

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勝家という人と柴田という家の全体像。お市との一年もここに含まれます。

なぜ会議は、こんなに早く開かれたのか

本能寺から清須会議まで二十五日。喪も明けていない。

なぜ、そんなに急いだのか。

織田家には「当主が空席」という状態に耐える仕組みがなかったからである。信長と嫡男・信忠が同時に死んだ。指揮系統の頂点が二つとも消えたことになる。

この状態が長引けば、各地の領国は勝手に動きはじめる。実際、旧武田領では一揆が起き、滝川一益は北条に敗れて撤退している。

つまり急いだのは、誰かが得をするためではなく、織田家が空中分解しないためだった。

そしてこの「急がなければならない」状況が、光秀を討った直後の秀吉に、最大限有利に働いた。時間があれば勝家も態勢を整えられた。時間がなかったから、直近の功績がそのまま発言力になった。

補助線④:秀吉が本当に得たもの

遺領の分配だけを見れば、秀吉の取り分は突出していない。

だが秀吉はこの会議に、山崎で光秀を討った直後の立場で臨んでいる。主君の仇を討った男に、正面から異を唱えるのは難しい。

彼が手に入れたのは領地ではなく、「議題を決める側に立つ」という位置だった。会議の勝敗はそこで決まっている。

弟の秀長も、この時期から兄の代理として動く場面が増えていく。のちに四国平定の総大将を任され、大和郡山で百万石を得るまでの助走がここから始まる。

現地はいま

  • 清洲城(愛知県清須市)… 会議の舞台とされる城。信長躍進の地でもある
  • 長浜城(滋賀県長浜市)… 会議で勝家が得て、一年後に失った城
  • 小谷城(滋賀県長浜市)… お市が浅井長政と暮らした城
  • 北ノ庄城(福井県福井市)… 勝家に嫁いだお市が最期を迎える城
  • 安土城(滋賀県近江八幡市)… 信長の城。会議の時点ですでに焼けていた

よくある疑問

Q. 清須会議に参加したのは誰ですか?
A. 柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の四人が中心とされます。滝川一益は関東からの帰還が間に合わなかったと伝わります。

Q. 三法師とは誰ですか?
A. 本能寺で信長とともに死んだ嫡男・織田信忠の子で、信長の嫡孫にあたります。当時わずか三歳でした。

Q. お市はなぜ勝家を選んだのですか?
A. 本人の意思がどこまで働いたかは史料からは断定できません。ただ婚姻自体は秀吉と勝家の申し合わせで成立したと勝家の書状にあり、政治的な取り決めとしての性格が強かったと考えられます。

イラストで見る武将・姫たち

この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。

  • 柴田勝家 … 会議で秀吉と主導権を争った織田家筆頭家老
  • 豊臣秀吉 … 山崎で光秀を討った直後の立場で会議に臨んだ
  • 丹羽長秀 … 「米五郎左」と称された織田の名宿老
  • 織田信孝 … 勝家が擁したとされる信長の三男
  • 織田信雄 … 信長の次男。兄弟で最も長く生きた
  • お市の方 … この年、勝家に嫁いだ信長の妹

まとめ

清須会議は、刀を抜かない戦いである。

信長の死から二十五日。まだ誰も落ち着いていない時期に、織田家の枠組みが決まった。速さそのものが、秀吉の武器だった。

そしてこの会議で勝家が得た長浜城は、一年後に敵の手に渡る。会議の席で配られたものが、そのまま次の戦いの布石になっていた。

▶ 次の回:第32回「賤ヶ岳の決闘」史実解説

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