豊臣兄弟!第27〜29回 史実解説|中国大返しはなぜ可能だったのか、天王山は本当に決め手だったのか

勝竜寺城:山城国長岡にある細川藤孝の居城 勝竜寺城
この記事のポイント

  • 天正十年(1582)六月二日、本能寺の変。秀吉は備中高松城を水攻めしている最中だった
  • 中国大返し――約二百キロを十日足らずで戻ったとされる、戦国最大級の強行軍
  • 六月十三日、山崎の戦い。本能寺からわずか十一日で光秀は敗れる
  • この十一日間が、秀吉を「信長の後継者」にした
▽ よく語られる話
山崎の戦いは「天王山」の争奪で勝敗が決まった。だから「天下分け目の天王山」と言う。
▼ 史実ではこうです
天王山が決め手だったという描き方は、後世に強調されたものという指摘があります。主戦場は円明寺川周辺の低地で、決定的だったのは兵力差と、光秀に味方が集まらなかったことでした。「天王山」は事実というより、言葉として強く残った例です。

大河ドラマ『豊臣兄弟!』第27回「本能寺の変」から第29回「天下への道」まで。信長が討たれ、秀吉が中国から駆け戻り、山崎で明智光秀を破るまでの三回である。

戦国史でもっとも密度の濃い十一日間と言っていい。史実の側から時間を追っておきたい。

備中高松城跡。秀吉が水攻めの最中に信長の死を知った場所である

目次

この三回で実際に起きたこと

  • 天正十年五月… 秀吉が備中高松城を包囲、水攻めを開始
  • 六月二日本能寺の変。信長・信忠が討たれる
  • 六月三日〜四日… 秀吉が変を知り、毛利と和睦。城主・清水宗治が自害
  • 六月六日ごろ… 撤退開始。中国大返し
  • 六月十三日山崎の戦い。光秀敗死
  • 六月二十七日清須会議

信長の死から山崎まで十一日、清須会議まで二十五日。この速度がすべてを決めた。

補助線①:水攻めの最中に、報せは届いた

秀吉は備中高松城を水攻めしていた。足守川をせき止め、堤を築いて城を水没させるという、あの手法である。

そこへ本能寺の報せが入る。もし城が落ちていなければ、動けなかった。秀吉は即座に毛利と和睦し、城主・清水宗治の自害を条件に囲みを解いた。

毛利が信長の死を知るのが数日遅れたことも大きい。知られていれば和睦は成立せず、背後を突かれていた。

補助線②:中国大返しは、なぜ可能だったのか

備中高松から山崎まで、およそ二百キロ。これを十日足らずで戻ったとされる。

「奇跡の強行軍」と語られるが、実際には準備があったと考えるほうが自然だ。街道沿いに兵糧と替えの草鞋を用意させた、船を使った区間がある、といった説明がなされる。

そしてこの「移動で勝つ」やり方は、翌年の賤ヶ岳でも繰り返される。美濃大返しである。秀吉の必殺技は槍ではなく脚だった。

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豊臣兄弟!第32回「賤ヶ岳の決闘」史実解説|45分では描ききれない、あの一日の裏側

翌年、同じ手が柴田勝家に対して使われます。並べて読むと秀吉の型が見えます。

補助線③:山崎の戦いは「天王山」ではない?

「天王山の戦い」という呼び方が定着しているが、天王山の争奪が勝敗を決したという描き方は、後世に強調されたものという指摘がある。

実際の主戦場は円明寺川(現・小泉川)周辺の低地で、兵力差が大きく開いていたことのほうが決定的だった。光秀は近畿の諸将をまとめきれず、味方が集まらなかった。

「天下分け目の天王山」という言葉は、この戦いから生まれた慣用句である。事実としてより、言葉として強く残った例だ。

なぜ、戻れたのが秀吉だけだったのか

本能寺の変のとき、織田家の主力はばらばらに散っていた。これは偶然ではなく、信長の方針の結果である。

柴田勝家は北陸で上杉と対峙し、滝川一益は関東で北条と向き合い、丹羽長秀は四国渡海の準備をしていた。信長は全方面へ同時に軍を出していた。

そして秀吉だけが、和睦できる相手と向き合っていた。

ここが決定的である。勝家の相手は上杉で、和睦の交渉をしている余裕はない。一益の相手は北条で、これも同じ。ところが毛利とは、すでに講和の話が進んでいた。だから即座に手を切って反転できた。

「運が良かった」と片づけられがちだが、正確にはこうだ。信長の死という同じ報せを受け取ったとき、動ける状態にあったのが秀吉だけだった。

そして動けた者が、天下を取った。

補助線④:秀長は、このとき何をしていたか

中国大返しにおいて、秀長は但馬から兵をまとめて合流したと伝わる。

兄が全速力で東へ向かうとき、誰かが後方を整理しなければならない。毛利との境目を押さえ、離脱する兵をまとめ、無事に軍を届ける。地味だが、これがなければ大返しは成立しない。

この兄弟は、いつもこの形である。兄が前へ出て、弟が後ろを塞ぐ。

勝竜寺城。山崎の戦いで敗れた明智光秀が、最後に入った城とされる

現地はいま

  • 備中高松城(岡山県岡山市)… 水攻めの舞台。堤の跡が残る
  • 勝竜寺城(京都府長岡京市)… 敗れた光秀が最後に入った城
  • 岐阜城(岐阜県岐阜市)… 信忠が拠っていた城
  • 安土城(滋賀県近江八幡市)… 変ののち焼失した信長の城
  • 清洲城(愛知県清須市)… この直後、清須会議が開かれる

よくある疑問

Q. 秀吉はいつ本能寺の変を知ったのですか?
A. 六月三日から四日にかけてとされます。毛利へ向かう密使を捕らえて知ったという逸話が有名ですが、細部は史料により異なります。

Q. 中国大返しの距離と日数は?
A. 約二百キロを十日足らずと伝わります。ただし全軍が同じ速度で移動したわけではなく、先発隊と本隊で差があったと考えられます。

Q. 明智光秀はなぜ味方を集められなかったのですか?
A. 細川藤孝・筒井順慶ら期待した勢力が動かなかったためです。十一日という短さでは、調略の時間もありませんでした。

イラストで見る武将・姫たち

この記事に登場する人物は、姉妹サイト「日本の武将ガイド」でイラストとあわせてご覧いただけます。

  • 豊臣秀吉 … 中国大返しで山崎へ駆け戻り、光秀を討った
  • 豊臣秀長 … 但馬から合流し、後方を支えた
  • 織田信長 … 本能寺で討たれた天下人
  • 黒田孝高 … 変を知った秀吉に即断を促したと伝わる
  • 筒井順慶 … 山崎で動かなかった大和の武将
  • 柴田勝家 … 北陸にあり、山崎に間に合わなかった

まとめ

本能寺から山崎まで十一日。この十一日で、織田家の後継者は決まった。

柴田勝家は北陸で上杉と対峙しており、間に合わなかった。滝川一益は関東にいた。たまたま近くにいたのではなく、戻れたのが秀吉だけだったのである。

そして二週間後、清須会議が開かれる。その席で秀吉が強かったのは、この十一日があったからだ。

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