信長公記:桶狭間の戦い(前編) 【日本の歴史ガイド】

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■ 日本の歴史ガイド 信長公記:桶狭間の戦い(前編)

日本の歴史ガイドでは織田信長の家臣「太田牛一」が書き残した「信長公記」を少しずつご紹介して行きたいと思っております。

永禄3(1560年)年5月17日、今川義元の先陣は沓掛に参着し、翌日大高城へ兵糧を運び込んだ。このことから、今川勢は翌19日の援軍の出しにくい満潮時を選んで織田方の各砦を落としにかかるに違いないと予測され、18日夕刻から丸根・鷲津からの注進が相次いだ。

しかしその夜、信長公は特に軍勢を揃えるわけでもなく、雑談をしただけで家臣に散会を命じてしまった。家老たちは「運の末ともなれば、智慧の鏡も曇るものよ」と嘲笑して帰っていった。
懸念の通り、夜明けになって「鷲津砦」「丸根砦」が囲まれたとの注進が入った。そして、注進を静かに聞いたあと、信長公は奥の間に入った。
そこで敦盛の舞を舞い始めた。

「人間五十年下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」

ひとしきり舞った。
そして「貝を吹け!」「具足をもて!」とたて続けに下知を発した。

出された具足をすばやく身につけ、立ちながらに食事をすると、信長公は兜を被って馬にまたがり、城門を駆け抜けた。このとき急な出陣に気づいて従った者は、岩室長門守ら小姓衆わずか五騎であった。(出典:信長公記)

※写真は信長が桶狭間の決戦に向かったとされる「清洲城跡」の石碑です。
清洲城:愛知県清須市朝日1−1

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清洲城地図】



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