熊本城:加藤清正苦心の城 武者返しなどの石垣が立派な熊本城 【お城特集 日本の歴史】

熊本城:加藤清正苦心の城 石垣が立派な新緑の熊本城 【お城特集 日本の歴史】

【城名】
熊本城

【城の説明】
熊本城は現在の熊本県熊本市中央区にある城である。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)とも言われております。

1469年頃に肥後守護の菊池氏の一族が城を築いたのが始まりである。その後、肥後(現:熊本県)守護の菊池氏が居城としたが豊前の「大友義鎮(宗麟)」と対立し、以後は大友氏に協力的だった「城親冬」が居城とした。

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1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、薩摩の島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡し筑後国に移った。秀吉は肥後の隈本城を織田政権時代には同僚であった「佐々成政」を領主して使命した。

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新たに隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こす。この時隈本城は国人衆による猛攻を受けたが、城代の神保氏張が死守して落城は免れている。

1588年(天正16年)、成政はこの一揆の責任を取らされて切腹を命じられ、代わりに加藤清正が肥後北半国19万5000石の領主となり隈本城に入った。

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加藤清正は、1591年(天正19年)から隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に新たな城郭を築きはじめる。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。※関ヶ原の戦い以前、肥後半国は小西行長の領地だったが、西軍につき敗北したため肥後一国は加藤清正へ与えられた。

熊本城:加藤清正苦心の城 石垣が立派な新緑の熊本城 【お城特集 日本の歴史】

1606年(慶長11年)には城は完成し、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。

1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広の改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り、清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。

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加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊やお家騒動により、城の修理もままならない状況であった。細川忠利は入封後、直ちに熊本城の修理を幕府に申し出ている。この修理は建築物の修繕に留まらず、本丸の増築にもおよび、現在見られる縄張りはこの修理の際、完成したものである。

※写真は現在の熊本城「日本100名城92番」






【熊本城・場所・アクセス】
〒860-0002 熊本県熊本市中央区本丸1−1

【熊本城地図】



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