ペリー提督:日本開国の親書を携え来航 黒船と呼ばれたペリー艦隊下田来航記念碑【史跡銅像 日本の歴史】


【名前】
黒船と呼ばれたペリー艦隊の下田来航記念碑

【説明】
ペリーは幕末日本に来航して鎖国を続けていた日本に対して開国の交渉にきた人物として知られている。本名は「マシュー・カルブレイス・ペリー」。日本への来航当時の書物には「ペルリ」と記載されていた。1852年に「東インド艦隊司令長官」に就任し、日本開国の交渉を行うよう大統領から指示され、その親書を携えて来航した。

ペリー提督:日本開国の親書を携え来航 黒船と呼ばれたペリー艦隊下田来航記念碑【史跡銅像 日本の歴史】

当時の日本は鎖国状態でほとんど外国との接触をしておらず、農民や武士の至るまでが初めて見る「蒸気船」を「黒船」と呼んでいた。嘉永6年(1853年)ミシシッピ号を旗艦とした4隻の艦隊を率いて浦賀に入港し、早速「浦賀奉行」の戸田・井戸両氏に親書を手渡した。

ペリー提督:日本開国の親書を携え来航 黒船と呼ばれたペリー艦隊下田来航記念碑【史跡銅像 日本の歴史】
※下田市の観光クルーズ「黒船サスケハナ」

しかし、当時の徳川幕府は右往左往するばかりで容易に結論が出ず、結果的に再度来航する旨を伝えて日本を離れた。嘉永7年(1854年)ペリーは旗艦サスケハナ号と6隻の軍艦を率いて再度来航し強行に開港を迫り、ついに「井伊直弼」の判断により「日米和親条約」の調印を結んだ。これにより日本は函館と下田を開港した。

下田開港の過程においてペリーはその下見を指示し開港に適しているか調査したという。その後開港と同時にペリー艦隊の乗組員が下田港に上陸した。ペリーは帰国後に航海の「遠征記」などを記したりして晩年を過ごしたという。享年63歳。今もロードアイランド州アイランド墓地で静かに眠っている。

ペリー提督:日本開国の親書を携え来航 黒船と呼ばれたペリー艦隊下田来航記念碑【史跡銅像 日本の歴史】
※下田に寄港したペリー艦隊へ乗り込もうとする吉田松陰と弟子の金子重輔






【所在地・アクセス】
静岡県下田市三丁目

【城地図】



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