湯築城:豊臣秀吉の四国征伐で滅亡した名門河野通直の居城 湯築城【お城特集 日本の歴史】

湯築城/アクセス・場所・地図 豊臣秀吉の四国征伐で滅亡した名門河野通直の居城 湯築城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
湯築城

【湯築城の説明】
湯築城は愛媛県松山市道後町にあった平城である。建武2年(1335年)あたりに伊予国の守護であった「河野通盛」により築城され、風早郡河野郷(松山市河野)より拠点を移した。

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天文4年(1535年)頃から「河野通直」によって本格的な城郭として整備された。戦国時代に入ると守護大名の河野氏は、国内の宇都宮氏・西園寺氏など河野氏に従わない国人衆も多く、完全な戦国大名になることは出来なかった。

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天正9年(1581年)には、四国征圧を目指す土佐の「長宗我部元親」が伊予国に侵入し、以降河野氏と長我部氏との死闘が始まる。元親は土佐・阿波の制圧を完了し、伊予国へ兵力を集中させ、ついに「河野通直」は降伏し元親に従属した。

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天正13年(1585年)、羽柴秀吉は四国征伐の軍を起こし、秀吉の命を受けた「小早川隆景」らの軍勢が伊予国へ侵攻した。隆景は長宗我部家に従属している「金子城主」の「金子元宅」を激戦の末に攻め落とし、続いて「河野通直」の湯築城を約1ヶ月間の籠城戦の末、降伏・開城させた。

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四国征伐が終わると論功行賞により伊予国は小早川隆景に与えられ、通直は隆景に庇護された。しかし、天正15年(1587年)通直が死去すると跡継ぎ不在により名族河野氏は滅亡する。

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隆景が筑前国への移封が決まると、天正15年(1587年)「福島正則」が伊予国を拝領し「国分山城」を本拠に定めたため、湯築城は廃城となった。明治時代に入ると湯築城跡は「県立道後公園」として整備され、城の遺構は土塁や堀などが残されている。

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現在、湯築城跡は日本100名城(80番)に選定されている。






【湯築城・場所・アクセス】
愛媛県松山市道後町

【湯築城地図】



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