佐伯藩/毛利家2万石:毛利高謙 早くから藩主が勤王派で鳥羽伏見の戦い後に恭順した佐伯藩【幕末維新写真館】

佐伯藩/場所・アクセス・地図 毛利家2万石:毛利高謙 早くから藩主が勤王派で鳥羽伏見の戦い後に恭順した佐伯藩【幕末維新写真館】

【藩名】
佐伯藩

【説明】
文禄3年(1594年)「毛利高政」が、蔵入地の代官として治めていた豊後国玖珠郡角牟礼城と、「宮城豊盛」が治めていた同国日田郡日隈城の2万石を与えられて入封する。

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幕末、最後の藩主「毛利高謙」は財政難の中、軍備の近代化を進めた。火薬や大砲を造り、また、佐伯湾内に砲台も築いた。高謙は孝明天皇に拝謁している尊皇派で、慶応年間には朝廷に献上品を差し出しており、早くから朝廷に接近していた。

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慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れた後、新政府軍に恭順を誓った。明治元年(1868年)10月2日、豊国神社再建のために瓦を献上する。明治2年(1869年)の版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により免官となる。

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明治2年(1869年)3月4日、版籍奉還を行なった高謙は佐伯知藩事に任命され華族に列した。12月には家老や番頭などの旧職名を廃して大参事、権大参事、小参事などを置く職制改革を行ない、藩士を士族と卒族に分け、俸禄規定も改正した。

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明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により佐伯県となり、後に大分県に編入された。

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