広島藩(芸州藩)/浅野家42万6千石:浅野長訓 軍を京都に送るも鳥羽・伏見の戦いには参戦しなかった広島藩【幕末維新写真館】

広島藩(芸州藩)/場所・アクセス・地図 浅野家42万6千石:浅野長訓 軍を京都に送るも鳥羽・伏見の戦いには参戦しなかった広島藩【幕末維新写真館】

【藩名】
広島藩(芸州藩)

【説明】
広島は元々は毛利輝元の主城であったが、「関ヶ原の戦い」で萩へ押し込められ、変わって同戦で戦功のあった「福島正則」が入封した。2代将軍「徳川秀忠」の時に、幕府の許可なしに城を修復した罪で改易となり捨扶持をもらって川中島へと移っていった。実際には外様大名を廃絶したい幕府の言いがかりと思われる。福島家の後は紀州から浅野家が移り、以降幕末に至るまでこの地を治めた。

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幕末の藩主「浅野長訓」は藩政改革を行い、文久2年(1862年)「辻将曹」を家老に抜擢し「文久の改革」を行なった。藩政機構・支配体系の中央集権化を図り、財政を強化し軍備を近代化し成功をみた。長州征討が始まると広島城は最前線基地となり戦争景気に湧いた。しかし広島藩としては長州征伐には否定的であり、幕府と長州藩の仲介を務める一方で幕府が命じた長征の先鋒役を辞退している。

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慶応2年(1866年)に第14代将軍「徳川家茂」が死去し、第二次長州征伐が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結ぶに至った。その一方で、第15代将軍「徳川慶喜」に「大政奉還」を推進するなどもしている。

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戊辰戦争が勃発すると広島藩は軍を京都の送り込むも「鳥羽・伏見の戦い」には加わらず日和見を通した。この一件から広島藩が新政府中枢になれなかった所以であろう。その後は新政府軍に加わり各地に藩兵を送り戦った。

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明治2年(1869年)6月、第12代藩主「長勲」は版籍奉還により広島藩知事に任じられ、明治4年(1871年)には「廃藩置県」により広島県となった。なお長勲は昭和12年(1937年)に96歳で死去するまで長寿を保ち「最後の殿様」ともてはやされたという。

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