岐阜城:本能寺の変にて織田信長・信忠親子が斃れ城主がめまぐるしく変わる岐阜城 中編【お城特集 日本の歴史】

岐阜城:本能寺の変にて織田信長・信忠親子が斃れ城主がめまぐるしく変わる岐阜城 中編【お城特集 日本の歴史】

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【城名】
岐阜城(稲葉山城)

【城の説明】
信長は美濃を拠点に北近江の浅井家、越前の朝倉家などと攻防を重ね、長い年月をかけて近江・越前・近畿、さらには本願寺を降伏させて摂津の国などを支配下においた。その上で各方面へ担当の軍事司令官を配置し、全国統一を目指すことになる。

ちなみに、各方面の軍事司令官は次の通りである。

北陸地方担当「柴田勝家」
関東地方担当「滝川一益」
中国地方担当「羽柴秀吉」
近畿地方担当「明智光秀」
四国地方担当「神戸信孝」

天正4年(1576年)信長は嫡子「信忠」を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃・尾張の2ヶ国を譲る。信長自身は近江に安土城を築きそこに移ることになる。しかし、天正10年(1582年)6月2日、信長・信忠親子が「本能寺の変」で明智光秀によって討たれてしまう。さらに信長を討った明智光秀は羽柴秀吉によって討たれることになる。

同年6月27日には「清洲会議」により神戸信孝が美濃国を拝領し岐阜城の城主及び信忠の嫡子三法師の後見役となる。

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天正11年(1583年)4月、信孝は実質天下人に近い存在になりつつある羽柴秀吉に対抗するため、長島城主の滝川一益と呼応し挙兵する。しかし「賤ヶ岳の戦い」によって柴田勝家が敗れ、兄の信雄によって岐阜城を包囲されるとこれに降伏した。その後、信孝は切腹させられた。

同年5月、秀吉から池田恒興が美濃国内にて13万石を拝領して大垣城主となると、その嫡男である池田元助が岐阜城主となる。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦い(徳川家康と織田信雄が同盟し羽柴秀吉との戦い)で池田恒興と元助親子が討死したため、岐阜城は恒興の次男・池田輝政の居城となった。

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天正19年(1591年)4月には、秀吉の命令による転封で池田輝政に代わって豊臣秀勝(信長の子で秀吉の養子)が岐阜城の城主となる。文禄元年(1592年)9月9日、その秀勝が没すると織田秀信(三法師)が岐阜13万石を拝領し岐阜城の城主となる。秀吉はこの時点ではあくまで「織田秀信」の後見人であったが実質的にはすでに天下人の様相を呈していた。

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※このように岐阜城の城主は何度も代わることになるが、この時点では岐阜城は再び織田家が治める城になったのである。






※岐阜城は日本100名城39番に指定されている。

【岐阜城(稲葉山城)・場所・アクセス】
〒500-0000 岐阜県岐阜市金華山天守閣18

【岐阜城(稲葉山城)地図】



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