岩槻城:太田道灌により築城され北条氏により落城した武蔵の名城 岩槻城(別名:白鶴城)【お城特集 日本の歴史】

岩槻城:太田道灌により築城され北条氏により落城した武蔵の名城 岩槻城(別名:白鶴城)【お城特集 日本の歴史】

【城名】
岩槻城(別名:白鶴城)

【城の説明】
岩槻城は、武蔵国埼玉郡岩槻にあった城である。江戸時代には岩付とも書かれた。荒川の台地を利用した平城であり、珍しい総曲輪型城郭の縄張りが施されていた。中世には鎌倉街道中道・奥州道沿いに、近世には日光御成街道沿いにあった。

現在、埼玉県の指定史跡となっている。長禄元年(1457年)扇谷上杉持朝とその家臣「太田道真」「太田道灌」父子により、江戸城・河越城とともに築かれたとされている。

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※成田氏が築城したという説もある

その後、永正7年(1509年)には、古河公方配下である「渋江氏」が岩槻城主となったとされている。戦国時代の初め、扇谷上杉氏と山内上杉氏の対立から関東も戦乱期に突入し、大永2年(1522年)太田資頼が岩槻城を奪取し、以後太田氏の居城となる。

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その後、北条氏が武蔵に侵攻して岩槻城攻略に乗り出すと、天文15年(1546年)の河越夜戦で北条氏の武蔵支配が決定的になる中、岩槻城はそれに抵抗する太田資正(三楽斎)の居城として機能した。

永禄7年(1564年)資正の留守中に嫡子「太田氏資」が北条氏康に内応し資正の追放を断行し、岩槻城は北条氏方となった。永禄10年(1567年)に太田氏資が上総国で戦死すると、氏資に男子がいなかったため、北条氏はこれを機に岩槻城を直轄領にする。

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天正8年(1580年)には北条氏直の弟の源五郎が城主として任命、源五郎が早世すると天正13年(1585年)にはその弟氏房が城主となった。天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の際には、氏房が小田原城に詰めたため、氏房付の宿老である伊達房実の指揮の下、2000の兵が岩槻城に籠城するが、浅野長政等が率る約2万の兵に攻められ、1000余の犠牲を出して数日後に降伏落城した。

北条氏滅亡後、徳川家康が関東に入ると、徳川家の譜代家臣の高力清長が2万石で岩槻城に入った。その後、青山氏・阿部氏・板倉氏・戸田氏・藤井松平氏・小笠原氏・永井氏ら譜代大名の居城となった。

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江戸中期に徳川家重の側用人大岡忠光(大岡忠相の遠縁)が入り、藩主が固定し、明治の廃藩置県まで大岡氏の居城となった。天守は無かったが天守代用の櫓として本丸に二層二階の瓦櫓があり、他に杮葺二層二階の二重櫓と同じく杮葺の一層一階の櫛形櫓が本丸に存在した。

城址公園に黒門と裏門が移築され残っている。
現在は、岩槻城を含め周辺を整備した岩槻城址公園となっている。






【岩槻城・場所・アクセス】
〒339-0052 埼玉県さいたま市岩槻区太田3-4

【岩槻城地図】



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