田丸城:北畠具教・具房親子の居城で織田信長の攻撃で降伏・開城した田丸城【日本の歴史 お城特集】

田丸城/アクセス・場所・地図 北畠具教・具房親子の居城で織田信長の攻撃で降伏・開城した田丸城【日本の歴史 お城特集】

【城名】
田丸城

【田丸城の説明】
田丸城は現在の三重県度会郡玉城町田丸にあった平山城である。築城時期は南北朝時代で南朝方の「北畠親房・北畠顕信」により築かれたと伝わる。

康永元年(1342年)、足利尊氏の攻撃により落城する。その後、室町時代に入ると伊勢国司となった北畠氏の手によって再建され、第5代当主「北畠政郷」の四男「顕晴」が度会郡田丸城に入り田丸氏を名乗った。

天正3年(1575年)、尾張の織田信長が伊勢攻略の軍を興し時の当主「北畠具教・具房」親子は信長の二男「信雄」を養子に迎えることで開城した。田丸城を守備していた「田丸具昌」も城を明け渡し信雄に仕えた。

田丸城/アクセス・場所・地図 北畠具教・具房親子の居城で織田信長の攻撃で降伏・開城した田丸城【日本の歴史 お城特集】

翌天正4年(1576年)、北畠信雄(織田信雄)は田丸城へ具教を招いて騙し討ちにし、ここに名門北畠氏嫡流は途絶えた。その後、信雄は田丸城を居城としていたが火災で焼失したため、新たに松ヶ島城を築き居城を移した。

天正12年(1584年)、豊臣秀吉と織田信雄・徳川家康による「小牧・長久手の戦い」ののち、松ヶ島城は「蒲生氏郷」に与えられ田丸城の田丸具昌は蒲生氏に仕える。

天正18年(1590年)の奥州仕置で氏郷が奥州会津へ転封になると具昌もこれに従い、田丸城には「稲葉道通」が入城する。稲葉氏が転封になると津城、上野城を治める藤堂高虎の支配地となり、元和5年(1619年)には徳川御三家の一つ紀州徳川藩の治めるの所領となる。

田丸城/アクセス・場所・地図 北畠具教・具房親子の居城で織田信長の攻撃で降伏・開城した田丸城【日本の歴史 お城特集】

新たに和歌山藩主となった「徳川頼宣」は付家老の「久野宗成」に6万石を与え、田丸城城主とした。しかし、田丸氏は和歌山城下に居を構えたため田丸城には一族が城代として政務を執った。江戸期を通じて久野氏が田丸城を治めて明治維新を迎えている。

現在の田丸城跡は、玉城町役場および玉城町立玉城中学校があり桜が多く植えられている。城の遺構としては天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などが今も整備されて残されている。

【田丸城・場所・アクセス】
〒519-0415 三重県度会郡玉城町田丸






【田丸城地図】



関連記事

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

CAPTCHA


ページ上部へ戻る