蒲原城:武田勝頼らの攻撃により北条綱重・長順兄弟が討死し落城した蒲原城【お城特集 日本の歴史】

蒲原城/アクセス・場所・地図 武田勝頼らの攻撃により北条綱重・長順兄弟が討死し落城した蒲原城【お城特集 日本の歴史】

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【城名】
蒲原城

【蒲原城の説明】
蒲原城は静岡県庵原郡蒲原町蒲原にあった海岸に面した平山城である。
築城時期は不明だが、鎌倉時代に「入江清定」の三男「清実」が蒲原荘に居住し蒲原氏を名乗ったと伝わる。

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以降戦国時代になるまで蒲原氏の居城として栄えた。天文5年(1536年)には「蒲原氏徳」が父満氏から家督を譲られて蒲原城主となった。しかし、駿河東の備えとして重要なこの地は度々城主が変わっており、天文14年(1545年)には「飯尾豊前守(飯尾連竜)」が城代として赴任している。

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永禄3年(1560年)、今川義元と織田信長との間で「桶狭間の戦い」が勃発すると前蒲原城主「蒲原氏徳」は討死し蒲原家は子の「徳兼」が継いだ。しかし、この頃から蒲原氏の城主としての地位はすでに失われていたと思われる。

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今川義元が討たれると「氏真」が今川家を継ぐことになるが、家政を顧みず、武威も示さず今川家は次第に衰退していく。これを時期到来と見た「武田信玄」は駿河・甲斐・相模の「三国同盟」を破棄して今川領内へ攻め込む姿勢を見せた。

今川家より支援要請を受けた「北条氏康」は、蒲原城へ実弟の「北条幻庵長綱」の子「北条新三郎氏信(北条綱重)」、とその弟の「北条長順」を在城させた。綱重・長順兄弟は城を改修し防備を固めた上で武田軍の侵攻に備えた。

永禄12年(1569年)、信玄は三たび蒲原城を攻撃し「武田勝頼」「武田典厩信豊」を総大将に攻めかかり、城将「北条新三郎・長順」兄弟以下、将兵1千名をことごとく討ち取った。この戦以降武田氏の駿河支配が進み、信玄からの信頼が厚い「山県昌景」が江尻城代として蒲原郡一帯を統治した。

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こうして武田領となった蒲原城だが、天正10年(1582年)の織田信長による「甲州征伐」では徳川家康の攻撃により落城。この時の城代は「朝比奈駿河守信置」で、徳川軍に降伏を申し入れたが聞き入れられず、城の落城とともに自刃して果てたようである。

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その後の詳細は不明だが、天正18年(1590)3月、豊臣秀吉が「小田原征伐」の軍を起こし、徳川勢が蒲原城へ着陣するのを最後に廃城となったと伝わる。現在、城の遺構は空堀や小規模な石垣、それに「北条新三郎の供養碑」などが残されている。

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【蒲原城・場所・アクセス】
〒421-3203 静岡県静岡市清水区蒲原2528

【蒲原城地図】



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