金ヶ崎城:浅井長政と朝倉義景との挟撃により信長が窮地に陥った 金ヶ崎城【お城特集 日本の歴史】

金ヶ崎城/アクセス・地図・場所 浅井長政と朝倉義景との挟撃により信長が窮地に陥った 金ヶ崎城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
金ヶ崎城

【金ヶ崎城の説明】
金ヶ崎城は福井県敦賀市金ヶ崎町にあった山城である。
治承・寿永の乱(源平合戦)の時に「平通盛」が「木曾義仲」との戦いのためにここに城を築いたのが最初と伝えられている。

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南北朝時代には「足利尊氏」が京都へ上洛したため、新田義貞は恒良親王・尊良親王と共に北陸へ逃れ金ヶ崎城へ入城した。建武3年(1336年)越前守護で足利方の「斯波高経」らは金ヶ崎城の攻撃を開始し城を包囲した。結局、城は落城しその後は越前守護代の「甲斐氏」が城主となる。

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戦国時代に入ると越前守護の斯波氏の勢力が弱まり、変わって守護代の朝倉氏が実質的な守護となる。金ヶ崎城には朝倉氏の城代として「朝倉景恒」が配置された。

元亀元年(1570年)、織田信長が怒涛のごとく越前へ侵攻してくると「金ヶ崎城」は開城し景恒は本国一乗谷城へと退いた。しかし、ちょうどその頃「浅井長政」が信長から離反し朝倉氏と挟撃しようと画策した。信長は少数の家臣だけを連れて単独京都へ退いた。

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一旦体制を整えた信長は同年、改めて越前へ侵攻を開始し金ヶ崎城を落とし一乗谷城にまで攻め込んだ。ここに朝倉氏は滅亡する。現在の金ヶ崎城跡は公園化されており、曲輪、櫓台跡などの遺構が残っている。






【金ヶ崎城・場所・アクセス】
〒914-0072 福井県敦賀市泉

【金ヶ崎城地図】



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