前橋城(厩橋城):上杉謙信や武田信玄・北条氏政らが争った北条高広の居城 厩橋城【お城特集 日本の歴史】

前橋城(厩橋城)/アクセス・地図・場所 上杉謙信や武田信玄・北条氏政らが争った北条高広の居城 厩橋城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
厩橋城(前橋城)

【厩橋城(前橋城)の説明】
前橋城(厩橋城)は群馬県前橋市にあった平城である。前橋城と呼ばれるが古くは厩橋城と呼ばれており関東七名城の一つに数えられた。

室町時代中期、箕輪城の長野氏の支城として石倉城が築城されたのが始まりとされている。天文20年(1551年)、北条氏政の軍が上野国へ侵攻すると厩橋城は城を開城し上杉氏を頼って退いた。

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永禄3年(1560年)、長尾景虎(上杉謙信)が厩橋城を攻め取り再び上杉氏の支配する地となるが、永禄6年(1563年)小田原の北条氏政・甲斐の武田信玄の軍が攻め寄せまたも城は落城する。その後、厩橋城は北条氏が支配していたが再び上杉家に取り戻され、謙信の重臣「北条高広」が城代に据えられた。

だが永禄10年(1567年)にはその「北条高広」が北条家へ寝返ったことにより厩橋周辺は再び北条家の勢力圏となる。その後、北条氏と上杉氏は武田家に備えるため相越同盟を結び、高広は上杉家へ帰属することが取り決められた。

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天正7年(1579年)、信玄の跡を継いだ「武田勝頼」が上野国へ攻め込むと厩橋城の北条高広は武田家に降伏し、城代としてそのまま城を任された。天正10年(1582年)、今度は安土の織田信長が甲州征伐の軍を起こすと武田家はあっけなく滅亡してしまい、厩橋城も織田家の城となり関東攻略の担当官として「滝川一益」が入城した。

同年6月、信長が家臣の明智光秀に本能寺の変にて討たれると「滝川一益」は「北条氏直」と神流川の戦いを交えて敗北する。この敗北を機に本拠地である尾張「長島城」への退却を始め、厩橋城は北条家が奪い返した。

天正18年(1590年)、信長の天下統一のあとを引き継いだ「豊臣秀吉」が小田原征伐の軍を起こすと厩橋城は豊臣方の「浅野長政」により攻め落とされ、同年8月には関東を配領した「徳川家康」が家臣「平岩親吉」を厩橋城主に任命し3万3千石を与えた。

慶長6年(1601年)、関ヶ原の戦いの後、甲府藩に移封した親吉に代わって「酒井重忠」が厩橋藩3万3千石を任され城に入る。酒井氏は代々城の改修を進め、城下町の整備にも力を入れて名前も「厩橋城」から「前橋城」へと変更した。

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寛延2年(1749年)、酒井氏が姫路へ移封となり、姫路より入れ替わりで「松平朝矩」が15万石にて前橋城に入り幕末まで松平氏が統治する城となる。

松平氏が統治の時代に厩橋城は度々利根川による水害に悩まされ、その都度城を修復しなければならなかった。前橋藩松平氏にはこれを行う財力が残っておらず、幕府の許可を得て川越藩を立藩する。これにより、前橋藩は川越藩となり前橋城周辺は川越藩の分領となり陣屋を構えることになる。

なお、厩橋城(前橋城)はそのまま残されていたが明和6年(1769年)に破却された。川越藩へ移封した松平氏だったが領民による帰城への訴えが度々行われる中、文久3年(1863年)、川越藩主「松平直克」は遂に幕府に願い出て前橋城の再築を開始した。

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そして、慶応3年(1867年)直克が入城し再び「前橋藩」が再興した。現在の前橋城跡には市役所や裁判所が建っておりその遺構は少ないが三の丸外郭の地が整備され現在の「前橋公園」となった。






【厩橋城(前橋城)・場所・アクセス】
〒371-0026 群馬県前橋市大手町1-1-1

【厩橋城(前橋城)地図】



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