甲府城:武田信玄・勝頼滅亡後新たに築城された関東の要地 甲府城【お城特集 日本の歴史】

甲府城アクセス・所在地・マップ 武田信玄・勝頼滅亡後新たに築城された関東の要地 甲府城【お城特集 日本の歴史】

【城名】
甲府城

【城の説明】
甲府城は山梨県甲府市にあった城である。現在の甲府市中心街の一条小山に築城された平山城で、別名「舞鶴城」と呼称され山梨県の史跡に指定されている。甲斐の国では戦国期から甲府が政治的中心地となり躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が造成されたが、武田氏滅亡後に甲斐を領した豊臣系大名や徳川氏が甲府城を築城して新たに甲府城下町が整備された。

豊臣政権では徳川家康を牽制する要所として豊臣家から信頼の厚い大名が配置された。江戸時代には将軍家に最も近い親藩の城となった。

天守台はあるが天守が建てられていたかは不明である。甲府城が築城された一条小山は甲斐国山梨郡板垣郷にあたり、平安時代後期には甲斐源氏の一族である甲斐一条氏が領し「一条忠頼」の居館があったと言われている。

戦国時代には甲斐国の守護「武田信虎(信玄の父)」の代に躑躅ヶ崎館(武田氏居館)を中心とする武田城下町が整備される。武田氏は信虎・晴信(信玄)の時代に戦国大名化し、信濃・駿河・西上野へと領国拡大を行い、躑躅ヶ崎館は勝頼の時代に至るまで領国経営の中心であった。信玄の後を継いだ勝頼の代に新府城(韮崎市)が築城され本拠地の移転が試みられたが、天正10年(1582年)3月に織田・徳川連合軍の侵攻による武田氏の滅亡により消滅した。

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武田氏滅亡後、甲斐国は織田家の重臣「河尻秀隆」が領し、引き続き「躑躅ヶ崎館」が甲斐国の拠点となるが、本能寺の変による信長の横死により武田家の領地のうち甲斐・駿河は徳川家康が領しすることになる。しかし家康は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを経て豊臣秀吉に臣従し、さらには小田原攻めの後、北条家の遺領を引き継ぎ関東へ移封となる。その後甲斐の国は豊臣系の大名に与えられ、甲府城の築城が本格化した。

羽柴秀勝は天正18年(1590年)7月に甲斐を拝領するが、翌天正19年(1591年)2月には美濃へ転封されておりその後は「加藤光泰」が甲斐の国を拝領している。加藤家の後は浅野長政・幸長親子が移封となり甲府城主となる。豊臣秀吉が死去し豊臣秀頼が秀吉の後を継ぐが「関ヶ原の戦い」「大阪冬の陣・夏の陣」を経て豊臣家は滅亡してしまう。慶長8年(1603年)徳川義直(家康の九男)が城主となる。

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慶長12年(1607年)義直が清洲へ転封となり城番制がしかれる。元和2年(1616年)からは徳川忠長(秀忠の二男・駿府城主)の支城となり「徳川綱重」「徳川綱豊」「柳沢吉保」「 柳沢吉里」が城主となり、その後は甲斐一国が幕府領(天領)となる。幕府直轄領のまま幕末を迎え、土佐藩の板垣退助(東山道軍)らが甲府城へ無血入城する。明治6年(1873年)には廃城令により甲府城は廃城となる。

現在は、本丸・天守曲輪及び天守台・稲荷曲輪・鍛冶曲輪の石垣、堀の一部が残り、躑躅ヶ崎館(武田氏居館)とともに甲府の観光地となっている。なお、甲府城は日本100名城25番に選定されている。






【甲府城・場所・アクセス】
〒400-0031 山梨県甲府市丸の内1-5-4

【甲府城地図】



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