琉球藩/尚氏8万9千石:尚泰 明治政府より琉球藩王に任命されるも最後は東京へ連行された尚泰【幕末維新写真館】

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【藩名】
琉球藩

【説明】
1872年(明治5年)、廃藩置県の翌年、琉球国王「尚泰」は明治政府により「琉球藩王」とされるとともに大日本帝国の華族の身分を与えられ、これにより琉球藩が設置された(第一次琉球処分)。尚泰は「皇国と支那の御恩」に感謝し、両国を「父母の国」と仰ぎ奉っているとして、日清「両属」の現状維持を要請し、清への朝貢を続け、王位を名乗り続けた。

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そんな中、琉球御用船の船員が、漂着先の台湾で台湾原住民「パイワン族」に殺害された、いわゆる「琉球島民殺害事件」が起きた。この事件を受け、明治政府は明治7年(1874年)に台湾出兵を行った。これに清側は直ちに抗議し、撤兵を強く求めた。明治政府は9月、「和戦を決する権」を与えられた「大久保利通」を全権として北京に派遣。

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清と交渉し、難航の末、清は日本の出兵を「義挙」と認め、50万両(テール)の賠償をすることで事件は決着した。これは、琉球の帰属問題で日本に有利に働くが、清は琉球の日本帰属を正式に承認したわけではなかった。明治政府は翌明治8年(1875年)、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、ならびに明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明。

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清は琉球の朝貢禁止に抗議するなど、外交上の決着はつかなかった。尚泰はその後も清への朝貢を続けたが、明治12年(1879年)、明治政府は「尚泰」を東京へ連行、内務官僚・警察隊・熊本鎮台分遣隊を派遣して鹿児島県へ編入し、同年中に沖縄県を設置した。

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これにより琉球藩は消滅した。

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【場所・アクセス・地図】






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