薩摩藩(鹿児島藩)/島津家77万石:島津忠義 鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで戦い抜き維新を実現させた薩摩藩【幕末維新写真館】

薩摩藩(鹿児島藩)/場所・アクセス・地図 島津家77万石:島津忠義 鳥羽伏見の戦いから五稜郭まで戦い抜き維新を実現させた薩摩藩【幕末維新写真館】

【藩名】
薩摩藩(鹿児島藩)

【説明】
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは西軍につくが、徳川四天王の一人「井伊直政」の取りなしで本領を安堵され、島津義弘の三男「家久」が当主と認められた。この時点をもって正式な薩摩藩成立と見なすのが通説である。慶長14年(1609年)、琉球に出兵して琉球王国を服属(琉球侵攻)させ、琉球の石高12万石を加えられた。

第8代藩主「島津重豪」は閉鎖的であった藩政を改革し、安永2年(1773年)に、藩校「造士館」と「演武館」の設立を手始めに、医学院や明時館と次々に学校を設立。した。また江戸幕府との結びつきを強めるため、三女の茂姫を第11代将軍「徳川家斉」に嫁がせた。これら重豪の豪奢な事業により薩摩藩の全国的な政治的影響力は格段に上がったものの藩財政は更に困窮の度を増した。

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その後、文政10年(1827年)、調所広郷を中心に藩政改革が断行されると、藩債整理、砂糖専売制の強化、琉球貿易の拡大などを打ち出して、財政は好転した。嘉永4年(1851年)、第11代藩主「島津斉彬」は洋式軍備や藩営工場の設立を推進し(集成館)、また、養女の篤姫を第13代将軍「徳川家定」の正継室にするなど幕末の幕末の四賢侯として抬頭した。

斉彬の死後、藩主「島津忠義」の実父で斉彬の異母弟にあたる「島津久光」が実権を握り、「国父」と呼ばれた。久光は公武合体派として雄藩連合構想の実現に向かって活動するが、薩英戦争を経て「西郷隆盛」「大久保利通」ら倒幕派の下級武士へ藩の主導権が移る。

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「徳川慶喜」が「大政奉還」すると、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。そして「王政復古の大号令」に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、「鳥羽・伏見の戦い」では旧幕府軍を退けて薩長軍が勝利を納めた。

この直後、海陸軍総督に任命されるが西郷の進言に従い1日で辞任している。その後、薩摩藩兵は上野戦争、北関東戦争、会津戦争、函館五稜郭まで転戦した。そして、明治維新後は長州・土佐・肥前の3藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。

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幕末の維新を実現した藩として長州藩とともに、明治以降の長きにわたり日本政治を支配する薩摩閥を形成することとなる。琉球諸島を除く薩摩藩領は、直轄地の奄美群島とともに明治4年(1871年)、7月14日の廃藩置県を経て鹿児島県となった。

【場所・アクセス・地図】
〒892-0853 鹿児島県鹿児島市城山町7










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