高鍋藩/秋月家2万7千石:秋月種殷 幕末では特に大きな動きがなかった高鍋藩【幕末維新写真館】

高鍋藩/場所・アクセス・地図 秋月家2万7千石:秋月種殷 幕末では特に大きな動きがなかった高鍋藩【幕末維新写真館】

【藩名】
高鍋藩

【説明】
秋月氏はもともと筑前国を領していたが、「豊臣秀吉」の「九州征伐」のとき、時の当主「秋月種実」が島津氏に与して抵抗し、のちに秀吉に恭順した。これにより36万石あった領地から日向国串間3万石に減封された。

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江戸時代中期、6代藩主「種美」の次男は米沢藩(上杉氏)に養子として入り、名君で有名な上杉鷹山(治憲)となる。その兄に当たる7代藩主「種茂」も高鍋藩の歴代藩主の中の名君として治績を上げた。

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安永7年(1778年)には藩校明倫堂を開いた。なお、秋月氏は10代にわたって高鍋を支配し明治時代に至った。明治4年(1871年)廃藩置県により高鍋県となり、美々津県、宮崎県、鹿児島県を経て鹿児島県となるが、その後分離し宮崎県となった。

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【場所・アクセス・地図】
〒884-0003 宮崎県児湯郡高鍋町南高鍋










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