福岡藩/黒田家43万3千石:黒田長知 幕末時は親長州藩の立場で早くから新政府側についた福岡藩【幕末維新写真館】

福岡藩/場所・アクセス・地図 黒田家43万3千石:黒田長知 幕末時は親長州藩の立場で早くから新政府側についた福岡藩【幕末維新写真館】

【藩名】
福岡藩

【説明】
慶長5年(1600年)、「関ヶ原の戦い」の功により、筑前の一部を領有していた「小早川秀秋」が備前国岡山藩に移封となった。代わって豊前国中津藩主「黒田長政」が同じく関ヶ原の戦功により筑前一国52万3千余石の大封を与えられ福岡藩が成立した。

江戸期を通じて黒田家がこの地を統治し続けた。幕末に入ると、慶応元年(1865年)、第一次長州征討の停戦周旋に奔走した筑前勤王党(尊皇攘夷派)を中心とする勤王派が藩内の勢力を強める。勤王派は同時に三条実美ら五卿を説得し太宰府に移したことで尊皇攘夷の雄藩の一角とされるようになった。しかし、藩主「黒田長溥」はこれを幕府に強く責められた。

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徳川幕府が「第二次長州征討」を決定すると藩論が佐幕に傾き、勤王派の多くが逮捕され家老「加藤司書」をはじめ7名が切腹、「月形洗蔵」ら14名が斬首、「野村望東尼」ら15名が流刑となった「乙丑の獄」により筑前勤王党は壊滅した。慶応4年(1868年)になると再び勤王派の巻き返しがあり藩論は勤王に転向と目まぐるしく変転した。

嘉永元年(1848年)11月、11歳で福岡藩主「斉溥」の養嗣子となった「黒田慶賛」は、親長州藩的な人物で、「禁門の変」など長州藩の苦境に際し朝廷や幕府に対して長州藩の赦免を求めている。戊辰戦争では新政府側に立つが特に目立った動きはしていない。明治2年(1869年)2月5日、斉溥(長溥)の隠居により後を継いで、慶賛が第12代福岡藩主となり、同年6月の版籍奉還により福岡藩知事となった。この頃に名を「黒田長知」と改めている。

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明治3年(1870年)、日田県知事「松方正義」が福岡藩士による太政官札偽造事件を告発。その後の明治政府の調査の結果、松方の告発が事実で福岡藩首脳部も関与していた事実が判明した。このため明治4年7月2日(1871年8月17日)、12代「長知」は知藩事を解任、後任には黒田家と縁のある「有栖川宮熾仁親王」が就任したが「廃藩置県」までのごくわずかだった。

この太政官札偽造事件を受けて、事件に関わった幹部である大参事立花増美・矢野安雄、権大参事小河愛四郎、小参事徳永織人・三隅伝八の5名が実行犯として処刑され、10人以上が閉門や流罪などにされている。そして長知一族は福岡を離れ、東京に移住した。その後、廃藩置県により福岡県となった。

【場所・アクセス・地図】
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1










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