府内藩/松平家2万2200石:松平近説 幕府要職にあったため新政府から謹慎を命じられた豊後府内藩【幕末維新写真館】

府内藩/場所・アクセス・地図 松平家2万2200石:松平近説 幕府要職にあったため新政府から謹慎を命じられた豊後府内藩【幕末維新写真館】

【藩名】
府内藩

【説明】
豊後府内は大友氏の居城であったが、「大友吉統」は「文禄の役」で卑怯なる振る舞いをしたとされ、「豊臣秀吉」の怒りを買って改易された。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」で豊後高田領主の「竹中重利」は西軍に与して田辺城の戦いに参加したが、後に東軍に寝返ったため「徳川家康」から高田1万石から豊後府内2万石に加増移封され、府内藩の藩祖となった。重利の跡は子の「重義」が継いで「徳川秀忠」の寵愛を得ていたが罪を得て改易された。

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代わって下野国壬生藩より「日根野吉明」が2万石で入封するが、明暦2年(1656年)に無嗣改易された。その後、豊後高松藩より「松平忠昭」が2万2200石として入封した。幕末の藩主「松平近説」は慶応3年(1867年)7月5日、若年寄となり、同年9月1日には会計奉行兼任となる。第二次長州征討では小倉に出兵したものの、国元で勤王派の「増沢近篤(虎之丞、近訓の長男)」が藩主代理に立てられ、幕府要職にあった近説は裏切られる形となった。

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慶応4年(1868年)2月6日、若年寄を辞職し、同年3月20日には松平姓を大給に改めた。新政府に恭順の姿勢を示すため上洛したものの謹慎を命じられてしまう。「中川久昭」を仲立ちに謝罪し、同年5月13日に謹慎をとかれ帰藩も許可される。明治2年(1869年)6月、版籍奉還により府内藩知事に任命された。明治4年(1871年)、廃藩置県により府内県となり、後に大分県に編入された。

【場所・アクセス・地図】
〒870-0046 大分県大分市荷揚町4










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