森藩/久留島家1万2500石:久留島通靖 来島水軍の末裔で大政奉還後いち早く新政府軍に与した森藩【幕末維新写真館】

森藩/場所・アクセス・地図 久留島家1万2500石:久留島通靖 来島水軍の末裔で大政奉還後いち早く新政府軍に与した森藩【幕末維新写真館】

【藩名】
森藩

【説明】
瀬戸内海で村上水軍の一軍として活躍した来島水軍の後裔である「来島長親(康親)」は伊予国来島(愛媛県今治市)に1万4千石を領していた。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」では石田三成率いる西軍に属したが、長親の妻の伯父にあたる「福島正則」の取りなしで「本多正信」を通じ家名断絶を逃れた。慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ1万4千石を拝領して森藩を立藩した。

2代通春は、元和2年(1616年)に名字を来島から久留島に改めた。幕末期においては薩摩藩と密かに接近して尊王論に傾倒し、藩論を尊王で取りまとめた。そして慶応3年(1867年)の「大政奉還」後の12月13日、入京して新政府側に与している。これは、豊後国内で唯一の行動である。慶応4年(1868年)、西国筋郡代「窪田鎮勝」が日田の代官所を放棄するとこれを占拠し、のちに岡藩とともに警備を任された。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により森藩知事に就任する。

明治4年(1871年)、廃藩置県により森県となったのち、大分県に編入された。

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