宇和島藩/伊達家10万石:伊達宗城 蒸気船を建造するなど西洋技術をいち早く取り入れたが戊辰戦争では新政府寄りの中立を保った宇和島藩【幕末維新写真館】

宇和島藩/場所・アクセス・地図 伊達家10万石:伊達宗城 蒸気船を建造するなど西洋技術をいち早く取り入れたが戊辰戦争では新政府寄りの中立を保った宇和島藩【幕末維新写真館】

【藩名】
宇和島藩

【説明】
旗本山口家の出身で祖父「山口直清」が宇和島藩5代藩主「伊達村候」の次男だったことから養子に迎えられることになったのが幕末の名君と言われた「伊達宗城」である。宗城は前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、さらに西欧化を推し進めて富国強兵政策をとった。

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「高野長英」や「村田蔵六(大村益次郎)」を採用して西洋の技術を積極的に取り入れた。村田蔵六には蒸気船と西洋式砲台を構築させている。また、幕政にも関与し、福井藩主「松平春嶽」、土佐藩主「山内容堂」、薩摩藩主「島津斉彬」と並び幕末の四賢侯と称された。

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斉彬を除く他の賢侯同様、将軍継嗣問題で一橋派に与したため「井伊直弼」による「安政の大獄」で隠居謹慎を余儀なくされ、第9代藩主には宗紀の三男で宗城の養子「伊達宗徳」が就任した。しかし宇和島藩政の実権は依然として宗城が掌握し、宗紀がそれを補佐し、宗徳は飾りに近い立場であった。

「桜田門外の変」で「井伊直弼」が暗殺されると宗城は表舞台に復帰し、孝明天皇に拝謁して国事に奔走した。以後、宗城は幕府と朝廷の間を渡り歩きながら幕末を駆け抜け、新政府が樹立されると新政府議定(新政府軍参謀兼務)に任命されたが「山内容堂」と共に辞任した。

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これは前将軍「徳川慶喜」が「大政奉還」をしたにも関わらず朝敵にされ、薩長の陰謀であるとしての辞任である。以後、宗城は非戦中立の立場をとった。当時藩財政が極端に圧迫されていたのと、支藩の吉田藩主「伊達宗孝(宗城の実弟)」が佐幕派として行動したためその説得に当たらざるを得なくなったためである。

一方、仙台藩主「伊達慶邦」が「奥羽越列藩同盟」の盟主となり逆賊になると、縁戚にあたる(慶邦の養子が宗城の次男宗敦であった)宗城は仙台藩存続に奔走し、使者を送って降伏を勧めるなどした。こうして宇和島藩としては戊辰戦争を戦わずにやり過ごした。薩摩・長州・土佐いずれも藩内抗争や討幕戦争で多くの藩士を失っているが、宇和島藩は宗城の強力な指導力の下で藩論が統制され、脱藩者も数名ほどで対外戦争でも中立立場を保つなど平穏を保った。その代償として有能な藩士が新政府中枢で起用されることはなかった。

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宗城自身は海外事情に通じていたことから新政府の外国掛・外国事務総督・外国官知事となり、明治4年(1871年)4月には全権大使として日清修好条規の締結に当たった。同年7月14日、廃藩置県により宇和島藩は宇和島県となる。

【場所・アクセス・地図】
〒798-0060 愛媛県宇和島市丸之内1-1










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