今治藩/松平家3万5千石:松平定法 早くから新政府軍に従い江戸や会津征伐まで参戦した今治藩【幕末維新写真館】

今治藩/場所・アクセス・地図 松平家3万5千石:松平定法 早くから新政府軍に従い江戸や会津征伐まで参戦した今治藩【幕末維新写真館】

【藩名】
今治藩

【説明】
慶長5年(1600年)、伊予国板島(宇和島)で7万石を領有していた「藤堂高虎」は「関ヶ原の戦い」の戦功により20万石に加増された。同時に今治市内にあった国分山城に移り今治藩が立藩した。しかし、国分山城は中世山城で城下町の整備が不便なため、慶長7年(1602年)、今張浦に近世城郭建設と翌年に城下町建設に着手し、慶長9年(1604年)現在の今治城と城下町が完成した。

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しかし、慶長13年(1608年)、高虎は伊賀国・伊勢国にて22万石に加増の上、加増転封となり津藩に移封した。残された越智郡2万石は養子の「高吉」が今治城主として支配した。今治の藤堂家も寛永12年(1635年)に、伊賀国名張に領地替えとなり藤堂氏の伊予支配は終了した。同年、伊勢国桑名藩より「松平定行」が伊予松山藩15万石にて入封となり、同時にその弟「松平定房」が伊勢長島城7千石から3万石に加増され今治城に入った。

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寛文5年(1665年)、今治藩の定房は江戸城大御留守居役に任ぜられ役料として武蔵国・下総国・常陸国から1万石を加増され、合わせて4万石となる。2代藩主「定時」は嗣子「定陳」に遺言として、定陳の弟「定直」に関東領地のうち5千石を分与するよう残した。このため今治藩の石高は3万5千石となった。元禄11年(1698年)には、関東領地5千石が天領となり伊予国内の宇摩郡5千石を代替として与えられた。

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幕末の10代藩主「松平定法」は文久3年(1863年)、軍備を洋式に改革し沿岸に砲台を建造した。また、時勢を見極めるため京都に長く駐在し、佐幕派・勤王派の周旋に尽力した。慶応元年(1865年)の「第二次長州征伐」の際には情勢を見極めた上で新政府軍に付くことを決意した。慶応4年(1868年)に勃発した「鳥羽・伏見の戦い」では、いち早く京に兵を進め御所の警護にあたった。

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慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では藩兵の一部が新政府軍として甲府城の警備、江戸・奥州・会津征伐まで転戦した。今治藩の動きは、宗家の伊予松山藩が将軍家の親族であることを理由に「鳥羽・伏見の戦い」まで佐幕を通したこととは大きく異なった。明治元年(1868年)、太政官布告により松平氏を返上し、菅原姓久松氏に復姓した。明治4年(1871年)、今治藩は「廃藩置県」により今治県となり、その後、松山県・石鉄県を経て愛媛県に編入された。

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