備中松山藩/板倉家5万石:板倉勝静 老中主座を務めた藩主自ら函館五稜郭まで転戦した備中松山藩【幕末維新写真館】

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【藩名】
備中松山藩

【説明】
元禄8年(1695年)、上野国高崎藩より「安藤重博」が6万5千石で入封する。子の信友は寺社奉行に任ぜられ、正徳元年(1711年)、美濃国加納藩に転封となった。同年、代わって山城国淀藩より「石川総慶」が6万石にて入封する。しかし、延享元年(1744年)、伊勢国亀山藩に転封となった。

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同時に亀山藩より「板倉勝澄」が5万石で入封する。以後、明治まで板倉氏の所領となった。幕末に第7代藩主となった「板倉勝静」は「井伊直弼」が「桜田門外の変」で暗殺された翌々年の文久2年(1862年)、将軍「徳川慶喜」の代に老中首座となった。藩政では「山田方谷」を起用し藩政改革を成功させた。

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勝静は幕政改革に取り組む一方で、慶応3年(1867年)、土佐の「山内容堂」が建言した「大政奉還」の実現にも尽力した。「鳥羽・伏見の戦い」の敗戦の際は慶喜と共に大坂にいて、老中酒井忠惇、会津藩主「松平容保」、桑名藩主「松平定敬」らと共に幕府軍官「開陽丸」で江戸へ退却した。

新政府は岡山藩に「錦の御旗」を渡して松山討伐を命じ、備中松山藩は苦境に陥った。留守を守っていた「山田方谷」は長州藩が攻めてきた場合には戦うつもりだったが、朝敵とされたこともあり、松山の領民を戦火から救い、板倉家を存続させるためには、松山城を明け渡した。

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勝静と嫡男の「万之進(勝全)」は江戸から戻れなかったので、藩主は強制的に隠居させたことにして、先代勝職の従弟にあたる「勝弼」を養子として新藩主に迎え勤王派に鞍替えして恭順した。松山藩は岡山藩の管理下に置かれ、幕府軍側として「鳥羽・伏見の戦い」に参戦していた「熊田恰」率いる松山藩兵150名が備中玉島に帰還した。岡山藩は熊田の首級を要求し、慶応4年(1868年)1月22日、それを知った熊田は自ら自刃して果てた。これによって、松山藩は最終的に戦火を免れた。

一方、勝静は「鳥羽・伏見の戦い」後も旧幕府軍に身を置き箱館五稜郭まで転戦した。明治2年(1869年)、「山田方谷」らの説得を受けて新政府軍に降伏し、禁錮刑に処せられた。同時に石高も5万石から2万石に減封された。

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次期藩主には「勝弼」がなり、藩名も伊予松山藩との混同を避けるために「高梁藩」と改称された。明治4年(1871年)、廃藩置県により高梁県となり、深津県、小田県を経て岡山県に編入された。






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