津和野藩/亀井家4万3千石:亀井茲監 長州藩の隣藩ということもあり早くから新政府に属した津和野藩【幕末維新写真館】

津和野藩/場所・アクセス・地図 亀井家4万3千石:亀井茲監 長州藩の隣藩ということもあり早くから新政府に属した津和野藩【幕末維新写真館】

【藩名】
津和野藩

【説明】
元和3年(1617年)7月20日、因幡鹿野藩より「亀井政矩」が4万3000石で入封し、亀井氏が明治時代まで藩主をつとめた。初代藩主「政矩」は幕府の信任が厚く一時は姫路藩移封の話もあったが、元和5年(1619年)に急死したため幻に終わった。第2代藩主「茲政」は幼少で後を継いだため、御家騒動が起こったが、重臣の多胡真清による主導のもとで内紛を治め藩政の確立に尽力した。

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第8代藩主「矩賢」は藩校「養老館」を創立し現在も現存している。最後の第11代藩主「茲監」は藩政改革を実行し、有能な人材を登用した。そして国学の発展にも力を注いだ。幕末には長州藩の隣藩であったため、中立を維持した。慶応2年(1866年)の第2次長州征伐には消極的な立場をとり、幕府軍が撤退すると、幕府が目付として残していた「長谷川久三郎」を長州藩に引き渡して和睦している。

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藩士の中には長州藩と行動を共にするものも多くあり、結果的には新政府内に人材を送り込むことになった。その後は長州藩寄りとなり、慶応4年(1868年)1月には新政府の参与に任じられ、以後は神祇事務局判事・議定職神祇事務局輔・神祇官副知事などを歴任し、宗教関係の行政を主に任されることとなった。

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明治4年(1871年)7月に詔勅された「廃藩置県」に先立って、茲監は廃藩建議書を提出し同時に藩知事を辞職した。その後、浜田県を経て島根県に編入された。

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【場所・アクセス・地図】






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