若桜藩(鳥取藩支藩、鳥取西館新田藩)/池田家2万石:池田徳定 禁門の変では幕府軍として戦うも戊辰戦争では鳥取藩と共に新政府に従った若桜藩【幕末維新写真館】

若桜藩(鳥取藩支藩、鳥取西館新田藩)/場所・アクセス・地図 池田家2万石:池田徳定 禁門の変では幕府軍として戦うも戊辰戦争では鳥取藩と共に新政府に従った若桜藩【幕末維新写真館】

【藩名】
若桜藩(鳥取藩支藩、鳥取西館新田藩)

【説明】
若桜藩は鳥取西館新田藩ともいい、鳥取藩の第2代藩主「池田綱清」が元禄13年(1700年)5月25日に弟の「池田清定(池田光仲の四男)」に新田1万5000石を分与したのが始まりで、藩庁は鹿奴藩と同じく鳥取に置かれた。なお、江戸屋敷が鉄砲洲にあったことから、鉄砲洲家ともいわれる。

第2代藩主「池田定賢」は享保5年(1720年)、5000石の加増を受けて2万石の大名となり、さらに幕府から松平姓を許され柳間詰となった。ただし、領地があったわけではなく鳥取藩から蔵米で支給を受けていたため実際に所領は無かった。

歴代藩主の中では、第5代藩主「池田定常(松平冠山)」が藩政改革を行い、また文学者としても有名で「柳間の三学者」「文学三侯」と称された。明治元年(1868年)12月10日、第10代藩主「池田徳定」は若桜(八頭郡若桜町)に若桜陣屋を置いたため若桜藩と呼ばれるようになった。

幕末期は佐幕派として御所警備を務め、義父「池田慶徳」の補佐に務め、元治元年(1864年)の「禁門の変」では慶徳の名代として軍を率いて上洛し、戦にも加わった。慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では鳥取藩とともに新政府軍に与して伊勢桑名藩と戦った。明治3年(1870年)、鳥取藩に帰属し、藩主家は明治17年(1884年)に子爵となった。

【場所・アクセス・地図】






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