宮津藩/松平家7万石:松平宗武 鳥羽・伏見の戦い以降西園寺公望の山陰鎮撫使に降伏した宮津藩【幕末維新写真館】

宮津藩/場所・アクセス・地図 松平家7万石:松平宗武 鳥羽・伏見の戦い以降西園寺公望の山陰鎮撫使に降伏した宮津藩【幕末維新写真館】

【藩名】
宮津藩

【説明】
天和元年(1681年)、「阿部正邦」が武蔵岩槻藩より入封するが、元禄10年(1697年)には下野宇都宮藩に転出し、入れ替わり宇都宮より「奥平昌成」が入封するも、享保2年(1717年)には豊前中津藩に転封となる。代わって信濃飯山藩より「青山幸秀」が入封したが、第2代藩主「幸道」は宝暦8年(1758年)、美濃郡上藩に移封となるなど、宮津藩主家は目まぐるしく入れ替わった。

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青山家の後に遠江浜松藩より「松平資昌」が7万石で入封してようやく藩主家が定着した。家祖「松平宗資」は第5代将軍「徳川綱吉」の生母「桂昌院」の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子「資俊」より松平姓を許された。この松平家は7代続き、2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出している。慶応4年(1868年)の「鳥羽・伏見の戦い」では幕府軍として戦ったが敗戦し、以後は新政府に恭順した。

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その後、山城八幡の警備を命じられたが、八幡警備に出陣した部隊が新政府軍に発砲したため、朝敵とされてしまった。これにより在洛していた宮津藩兵は武装解除され、宗武は入洛禁止の処分を受けた。1月23日、国元の重臣は「西園寺公望」率いる山陰鎮撫使に降伏している。明治4年(1871年)廃藩置県により宮津県となり、豊岡県を経て京都府に編入された。

【場所・アクセス・地図】






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