狭山藩/北条家1万石:北条氏恭 天誅組の乱に出兵したが早々に新政府軍に従った北条早雲の末裔 狭山藩【幕末維新写真館】

狭山藩/場所・アクセス・地図 北条家1万石:北条氏恭 天誅組の乱に出兵したが早々に新政府軍に従った北条早雲の末裔 狭山藩【幕末維新写真館】

【藩名】
狭山藩

【説明】
第5代当主「北条氏直」は「徳川家康」の娘婿であり、北条氏規(北条氏康の五男)は「北条征伐」の和平に尽力し、豊臣秀吉とも会見していたという経緯から特別に許され、高野山での蟄居を命じられた。天正19年(1591年)、氏直は嗣子無くして30歳の若さで死去した。このため、北条氏の嫡流は断絶したが、氏規がその跡を継いで北条氏の当主となった。

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その後、罪を許されて氏規の子「北条氏盛」は下野国内で4,000石、氏規も河内狭山で7,000石を領することになる。慶長5年(1600年)、氏規が没すると氏盛はその家督と遺領を継いで1万1,000石の大名となり狭山藩が立藩された。

狭山藩は江戸時代後期から幕末にかけて、天保8年(1837年)の「大塩平八郎の乱」、安政元年(1849年)のプチャーチンの大坂湾進入、文久3年(1863年)の「天誅組の乱」鎮圧に出兵し、軍事費が膨らみ藩財政がひっ迫した。

慶応4年(1868年)からの「戊辰戦争」では当初から新政府軍に加わった。しかし、江戸中期からの財政赤字と度重なる出兵により藩の財政は破綻しており、明治2年(1869年)、最後の藩主である氏恭は他藩に先駆けて版籍奉還を行なった。

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氏恭は狭山藩知事に任ぜられるも早々に辞任を乞い、同年12月に認められた。軍事費と藩債に潰された狭山藩は、明治4年(1871年)の廃藩置県を待たずして崩壊し、堺県に併合された。その後は大阪府に編入された。現在、大阪府堺市堺区神明町東3丁の西本願寺堺別院(堺北御坊)に狭山藩の御成門と梵鐘が移築されている。

【場所・アクセス・地図】






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