岸和田藩/岡部家5万3千石:岡部長職 幕末期は尊皇・佐幕両派に藩論が割れたが戊辰戦争では新政府軍に従った岸和田藩【幕末維新写真館】

岸和田藩/場所・アクセス・地図 岡部家5万3千石:岡部長職 幕末期は尊皇・佐幕両派に藩論が割れたが戊辰戦争では新政府軍に従った岸和田藩【幕末維新写真館】

【藩名】
岸和田藩

【説明】
岸和田藩は「松平康映」の妻の父である「岡部宣勝」が摂津国高槻藩より6万石で入封し、明治維新まで岡部氏の所領となった。歴代藩主は財政再建のため様々な藩政改革を行ったが、目立った効果もなく幕末に至った。天保8年(1837年)には「大塩平八郎の乱」が起こり、岸和田藩は大坂城の守備に当たった。

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第11代藩主「岡部長発」は、嘉永5年(1852年)に藩校「講習館」を開いた。次の藩主「長寛」は慶応2年(1866年)に藩校を増築し「修武館」と改称した。幕末の動乱期に入ると藩論は勤王・佐幕両派に分かれたが、慶応4年(1868年)に始まった「戊辰戦争」では新政府軍に従い参戦した。明治4年(1871年)、廃藩置県により岸和田県となり、その後、堺県を経て大阪府に編入された。

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