田辺藩(紀州藩附家老)/安藤家3万8千石:安藤直裕 幕末に新政府から独立した藩として認められた紀伊田辺藩【幕末維新写真館】

田辺藩(紀州藩附家老)/場所・アクセス・地図 安藤家3万8千石:安藤直裕 幕末に新政府から独立した藩として認められた紀伊田辺藩【幕末維新写真館】

【藩名】
田辺藩(紀州藩附家老)

【説明】
「浅野幸長」が紀伊を支配していた頃は、一族の「浅野知近」が田辺城を領していた。元和5年(1619年)7月、徳川家康の十男「徳川頼宣」が紀州藩主に封じられたとき、その付家老として遠江国掛川城主「安藤直次」が付けられた。直次は和歌山県田辺市に3万8,000石の所領と田辺城を与えられた。歴代田辺藩主は、紀州藩の執政として紀州藩政に参与することが多かったため、和歌山城下に住む者が多かった。そのため、田辺城には城代として直次の従弟である「安藤直隆」の子孫が務めていた。

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幕末期には海防が重視され、藩内に大砲28門、砲台築造などが行なわれた。安藤家といえば、直次の弟重信をはじめ、多くの分家や一族が幕閣となり、江戸気を通じて幕府の中枢を担ってきた。

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領土も磐城平藩を領するなどしたが、三河安藤氏の宗家はこの紀州徳川家の執政安藤家であり、他の安藤家は分家である。慶応4年(1868年)、明治政府の計らいによって独立の藩と認められて立藩した。明治4年(1871年)の廃藩置県で廃藩となり、田辺県を経て和歌山県に編入された。

【場所・アクセス・地図】






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