井伊谷藩/近藤家1万5千石:近藤秀用 一族へ所領分与のため旗本となり廃藩【幕末維新写真館】

井伊谷藩/場所・アクセス・地図 近藤家1万5千石:近藤秀用 一族へ所領分与のため旗本となり廃藩【幕末維新写真館】

【藩名】
井伊谷藩

【説明】
慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」後、「井伊直政」が戦傷が原因で死去すると、直政の家臣だった「近藤秀用」は「池田輝政」の仲介もあって「徳川家康」の直臣として召し出され、上野国において5000石を与えられた。

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その後、「大坂の陣」でも戦功を挙げたため、秀用は慶長19年(1614年)に相模国内において新たに1万石を与えられ、上野の5000石と合わせて1万5000石の大名として諸侯に列した。

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元和5年(1619年)、秀用は井伊谷1万5000石に移封となり、井伊谷藩が立藩された。元和7年(1621年)には2000石をされに加増された。しかし秀用は1万7000石の所領のうち、次男の「近藤用可」に5300石を与え、四男の「近藤用義」に井伊谷藩を継がせるなど一族に所領を分与して旗本となった。こうして井伊谷藩は短期間で廃藩となった。

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【場所・アクセス・地図】






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