鯖江藩/間部家4万石:間部詮道 井伊直弼と共に安政の大獄を断行し桜田門外の変後は減封された鯖江藩【幕末維新写真館】

鯖江藩/場所・アクセス・地図 間部家4万石:間部詮道 井伊直弼と共に安政の大獄を断行し桜田門外の変後は減封された鯖江藩【幕末維新写真館】

【藩名】
鯖江藩

【説明】
鯖江藩は享保5年(1720年)9月、越後村上藩主「間部詮言」が鯖江5万石に移封されたことから立藩した。幕末には大坂城代や京都所司代、老中を歴任し、藩主「間部詮勝」は藩政改革を行ったが領民から厳しい摂取を図ったために失敗した。

詮勝は井伊直弼が推し進めた「日米修好通商条約」締結における処理や「公武合体」運動に功績を挙げたが、その反面で「井伊直弼」と共に尊王攘夷派や一橋派を徹底して弾圧した。このため、直弼の死後「一橋慶喜」や「松平慶永」が政治の表舞台に復帰すると、直弼の派閥だった理由から文久2年(1862年)、隠居謹慎を命じられた上に1万石を減封されて4万石となった。

鯖江藩を多少有名にしたのは、天狗党の一党が京都の「一橋慶喜」に会うために700人規模の部隊で非行していた際に、最後は鯖江藩領で自首した。この時の鯖江藩の対応は「ニシン棟」に天狗党一味を押し込めて、京都からの指示を待ったと伝わる。

この非情な扱いはあまりにも酷だという意見があがったほどだ。ちなみに、一橋慶喜は自分を慕ってきた天狗党を見捨てる形を取り、これにより約300名が斬首され残りも多くの者が処罰されるという江戸期を通じても最も厳しい処断であった。

今でも閉じ込められていた鯖江藩領のニシン蔵には無念の天狗党隊士が血で書き残した詩や辞世の句が残されている。

慶応3年(1868年)の江戸薩摩藩邸の焼討事件には庄内藩、上山藩、岩槻藩と共に参戦した。戊辰戦争が勃発すると新政府軍に恭順。明治2年(1869年)の「版籍奉還」により鯖江藩最後の藩主「間部詮道」は鯖江藩知事となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」により鯖江県となるが分割されて福井県と敦賀県に再編された。

【場所・アクセス・地図】






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