大聖寺藩(加賀藩支藩)/前田家10万石:前田利鬯 鳥羽・伏見の戦い敗戦後佐幕一色から新政府軍に恭順した大聖寺藩【幕末維新写真館】

大聖寺藩(加賀藩支藩)/場所・アクセス・地図 前田家10万石:前田利鬯 鳥羽・伏見の戦い敗戦後佐幕一色から新政府軍に恭順した大聖寺藩【幕末維新写真館】

【藩名】
大聖寺藩(加賀藩支藩)

【説明】
寛永16年(1639年)、加賀藩の第3代藩主「前田利常」が隠居する際、次男の利次に富山10万石を、三男の利治に大聖寺7万石を分与して、富山藩と大聖寺藩が立藩された。3代藩主の「前田利直」は、弟の利昌に大聖寺新田1万石を割いて「大聖寺新田藩」を立藩させたが、利昌が将軍綱吉葬儀の最中、柳本藩主「織田秀親」を刺殺するという乱行に及んだために切腹を命じられ、宝永6年(1709年)に改易となり、領地は大聖寺藩に復した。

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9代藩主の利之は、文政4年(1821年)に7万石から10万石への高直しを行った。幕末の藩主「前田利鬯」は「東方芝山」を起用して、富国強兵を行なう。また、佐幕派として「天狗党の乱」「禁門の変」や御所の警備、東叡山守備などで功績を挙げた。慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では旧幕府軍に与しようとしたが、「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新政府軍に恭順して「北越戦争」に出兵した。

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明治2年(1869年)の版籍奉還で大聖寺藩知事となり、明治4年(1871年)の「廃藩置県」で廃藩の上、免官された。

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