沢海藩(新発田藩支藩)/溝口家1万石:溝口政親 素行の悪さから改易・廃藩【幕末維新写真館】

沢海藩(新発田藩支藩)/場所・アクセス・地図 溝口家1万石:溝口政親 素行の悪さから改易・廃藩【幕末維新写真館】

【藩名】
沢海藩(新発田藩支藩)

【説明】
沢海藩の藩祖は新発田藩藩祖「溝口秀勝」の次男「溝口善勝」である。善勝は秀勝に早くから5000石を与えられ、慶長14年(1609年)には幕府から上野国内に2000石を与えられていた。翌年、父の死により改めて1万2000石を「新発田藩」より分与され、1万4000石を領する大名となって「沢海藩」を立藩した。

善勝は「大坂の陣」で本家とは別行動をとって功を挙げ、その後も徳川幕府に仕えて活躍したが、寛永11年(1634年)に51歳で死去した。家督は長男の「溝口政勝」が継いだが、このとき弟達にそれぞれ分与があったため「沢海藩」の所領は1万石となった。寛文10年(1670年)に政勝が死去すると、家督は長男の政良が継いだ。政良は新田開発、藩政の整備などに尽力したが、天和3年(1683年)に死去した。

越後沢海藩第4代藩主「溝口政親(加藤明友の次男)」の時、百姓に対して過酷な重税を行い、酒に溺れては狂乱に陥る振舞いがあったため、貞享4年(1687年)8月、所領を没収されて兄の「加藤明英」の江戸藩邸で謹慎を命じられ沢海藩は廃藩となった。

【場所・アクセス・地図】






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