三根山藩(長岡藩支藩)/牧野家1万1千石:牧野忠泰 宗家長岡藩の落城により恭順【幕末維新写真館】

三根山藩(長岡藩支藩)/場所・アクセス・地図 牧野家1万1千石:牧野忠泰 宗家長岡藩の落城により恭順【幕末維新写真館】

【藩名】
三根山藩(長岡藩支藩)

【説明】
幕末の1863年(文久2年)、三根山藩主「牧野忠泰」は開墾した新田分5千石を新たに打ち出し、高直しにより11,000石となり「三根山藩」を立藩した。三根山藩は「参勤交代」を行わない定府大名(常に江戸屋敷で政務をとること)となった。藩庁は「三根山陣屋」に置かれた。また、藩校入徳館を開校し文武の教育にも力を入れた。

戊辰戦争では宗藩「長岡藩」に近い立場をとるが、新潟港や長岡藩が相次いで陥落すると新政府軍に恭順し、そのまま新政府軍の「庄内藩征伐」に出兵した。明治3年(1870年)、藩名が丹後峰山藩と同音のため「嶺岡藩」と改めさせられる。翌明治4年(1871年)には「廃藩置県」にて嶺岡県となり、同年中に新潟県に併合された。

なお、三根山藩の宗藩「長岡藩」は北越戊辰戦争敗戦後に極度の食糧不足に陥ったため、急遽三根山藩が100俵ほどの義援米を送り届けたが、その義援米の扱いをめぐって長岡藩が人材育成を優先したことが、後に戯曲化されて「米百俵」の美談として世に知られるようになった。

※米百俵の精神
長岡藩の文武総督であった「小林虎三郎」は三根山藩からの義援米100俵を藩士に分け与えるのではなく、今こそ教育による人材育成が必要と訴え「国漢学校」を長岡の坂之上町に開校させた。その後、洋学局や医学局も設置され優秀な人材を育てた。

【場所・アクセス・地図】






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