百首藩(造海城)/松平家1万500石:松平重則 下野皆川へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】

百首藩(造海城)/場所・アクセス・地図 松平家1万500石:松平重則 下野皆川へ移封のため廃藩【幕末維新写真館】

【藩名】
百首藩(別名:造海城)

【説明】
寛永10年(1633年)4月、「松平重則」が4000石を加増され1万500石を領する大名とし列すると「百首藩」を立藩した。しかし、寛永17年(1640年)、所領を下野国「皆川藩」に移封され「百首藩」は廃藩となった。

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「松平定信」の「寛政の改革」では海防の整備が百首にて計画されていたが、定信が寛政5年(1793年)7月に老中を辞任したため、実現することなかった。その後、文化7年(1810年)2月、定信は幕命を受けて百首の地に「竹ヶ岡」の台場を築いている。その後も百首の地は天領となっていた。

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江戸時代後期に入ると、異国船の出没から次第に海防の必要性が重視されると、百首の地は海防において最も重要な拠点のひとつと見なされた。その後、海防を任じられた武蔵国忍藩など諸藩が領する所領(飛地)となった。

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【場所・アクセス・地図】






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