高徳藩/戸田家1万石:戸田忠綱 旧幕府軍と新政府軍の戦場にもなった高徳藩【幕末維新写真館】

高徳藩/場所・アクセス・地図 戸田家1万石:戸田忠綱 旧幕府軍と新政府軍の戦場にもなった高徳藩【幕末維新写真館】

【藩名】
高徳藩

【説明】
慶応2年(1866年)3月、「戸田忠至」は「天狗党の乱」で改易の危機に立たされた宇都宮藩を救い、山陵奉行として功績を挙げたことから、本家である宇都宮藩戸田家から1万石を分与され、大名となり、高徳藩を立藩した。

領地は高徳・藤原・塩原など下野で1735石、河内で若江・丹北など5265石、他に新田3000石であった。戊辰戦争で高徳藩領内は新政府軍と旧幕府軍の戦場にもなった。本藩の宇都宮藩が新政府軍に早くから恭順していたため高徳藩も同じ道を歩んだ。

忠至は明治維新後、新政府に招かれて山陵修補奉行や京都裁判所副総督、宮内大丞、御医師支配、権弁事、参与会計事務局判事などを歴任したため、明治2年(1869年)に家督を子の「戸田忠綱」に譲った。忠綱は明治3年(1870年)に下野と河内の両国における所領を上知されて下総に所領を与えられたため下総国曽我野に移り、以後は曽我野藩となった。

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