大田原藩/大田原家1万1千石:大田原一清 新政府軍についたため会津藩や旧幕府軍から攻撃を受けた大田原藩【幕末維新写真館】

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【藩名】
大田原藩

【説明】
第3代大田原藩主「大田原高清」は弟の「為清」に1000石を分知し、表高は1万1000石となった。大田原氏は小藩ながら外様大名として江戸期・幕末・明治時代まで存続した。幕末の嘉永3年(1850年)、第12代藩主「大田原広清」は藩校「時習館」を開くなど開明的であった。

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最後の藩主「大田原一清」は戊辰戦争においては新政府軍についた。このため、大田原城は旧幕府軍の残党や「奥羽越列藩同盟」の東北諸藩に狙われることになる。慶応4年(1868年)5月、ついに大田原城は会津藩や旧幕府軍の攻撃を受けて城は焼失し城下町も焦土となった。しかし、落城だけは逃れた。

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このような幕末戊辰戦争をどうにか乗り切った大田原藩は、明治4年(1871年)の「廃藩置県」により大田原県となる。その後、宇都宮県を経て栃木県に編入された。大田原氏は明治2年(1869年)の「版籍奉還」とともに華族に列し、明治17年(1884年)の華族令により子爵となった。

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