亀田藩/岩城家2万石:岩城隆邦 庄内藩と共に新政府軍と戦った亀田藩【幕末維新写真館】

亀田藩/場所・アクセス・地図 岩城家2万石:岩城隆邦 庄内藩と共に新政府軍と戦った亀田藩【幕末維新写真館】

【藩名】
亀田藩

【説明】
慶応4年(1868年)の「戊辰戦争」では、東北諸藩が結んだ「奥羽越列藩同盟」に加盟した。しかし、12代藩主の「岩城隆邦」は同盟締結前に新政府の上洛命令に東北諸藩で唯一応じて明治天皇に拝謁したほどの勤王派であったこともあり、久保田藩の呼びかけで「本荘藩」「新庄藩」「矢島藩」とともに同盟を脱退し、新政府軍(奥羽鎮撫隊)に与した。そして、奥羽越列藩同盟の庄内藩兵との戦いに参戦した。(秋田戦争)

亀田藩は新政府軍の先鋒として酷使され、長州藩から派遣された監軍の「山本登雲助」が小藩と侮り横暴な振舞をしたことで、亀田藩内部で新政府軍を「官賊」と見なす声が上がり始めた。庄内藩の猛攻により矢島藩が陥落した後の軍議で、亀田藩隊長の「神谷男也」を山本が罵倒し鉄扇で殴打するという屈辱的な事件が起こった。更に本荘藩も陥落していく中、弘前藩からの援軍が到着し、本荘藩主「六郷政鑑」も反撃を主張しているにも関わらず、山本は本荘藩・亀田藩を捨てて久保田藩へ総退却することを命じた。

亀田藩/場所・アクセス・地図 岩城家2万石:岩城隆邦 庄内藩と共に新政府軍と戦った亀田藩【幕末維新写真館】

この一連の流れで亀田藩は、藩主「岩城隆邦」を説き伏せて庄内藩と交渉し、8月8日に和議が成立した。隆邦はあくまでも新政府軍に殉じようと主張したが、領民を守るためとの家臣の主張にしぶしぶ同意し、自らを人質と称して庄内へ出向いた。庄内藩主「酒井忠篤」は隆邦を賓客として扱った。

その後、亀田藩兵は庄内藩に合流して秋田の新政府軍と戦ったが、9月11日、久保田城まで3里の距離に迫ったところで、佐賀藩・薩摩藩などの援軍が到着し新型兵器も供給され勢いを盛り返した新政府軍から痛烈な反撃を受けた(椿台の大会戦)。また、この頃「米沢藩」「仙台藩」が降伏したことで、新政府軍に南北から挟撃される可能性が生じた。

そのため庄内藩兵も撤退し自領防衛に徹することになったが、庄内軍は亀田を見捨てず、亀田軍の撤退を見届けてから自らが撤退することで信義を見せた。9月21日、亀田城に進軍してきた久保田藩兵が山本の命令で亀田城に放火した。

9月27日、亀田藩は庄内藩とともに新政府軍へ降伏した。降伏嘆願書は秋田の奥羽鎮撫隊総督府ではなく、越後征討軍参謀の「黒田清隆」へ提出した。久保田藩と庄内藩に挟まれた小藩としての立場を主張して、事情を考慮させることに成功し最終的に2,000石の減封と隆邦の隠居という寛大な処分で済ませることができ、加盟存続が認められた。

【場所・アクセス・地図】
〒018-1223 秋田県由利本荘市岩城下蛇田高城4










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